武士道のバイブル『葉隠』が説く、恋愛にも通じる「究極の忠義」とは?
江戸時代、戦国武士の遺風を偲んだ鍋島藩士の山本常朝(やまもと じょうちょう)が、奉公のあるべき姿を説いた『葉隠(はがくれ)』。
その中で、武士道を構成する基本精神として欠かすことのできない「忠義」の概念について常朝は力説していますが、その究極形とは、一体どのような境地なのでしょうか。
今回は、ある意味で「恋愛にも通じる」と言われる究極の忠義について紹介したいと思います。
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その忠義は、一番槍にも勝るもの
古来「諫言(かんげん)は一番槍に勝る」と言いますが、結論から言えば、『葉隠』で謳う究極の忠義とは、諫言に外なりません。
諫言とは読んで字のごとく、目下の者が上の者を諫(いさ)める言(こと)。またはその諫める行為を指します。
諫めるというからには「間違いを正す」意図をもってなされるわけで、諫められる側としてはあまり面白くないのが普通です。
それがなぜ「一番槍に勝る」のでしょうか。一番槍と言えば、命を失う危険を顧みずに忠勇をあらわした第一等の武功なのに、口先一つで可能な諫言の方がすぐれているのは、腑に落ちない気もしますが……。
なぜ、諫言は一番槍に勝るのか
その答えは、実にシンプルです。
まず一番槍は命を失うリスクこそ高いものの、それを目指すことによって、少なくとも名誉はリターンとして保証されます。
と言うと「いくら手柄を立てても、命を失ったら意味ないじゃん!」と思うかも知れませんが、武士とは「自分の命よりも名誉を尊ぶ」価値観をよしとする者(※)であり、たとえ自分が死んでも、一族に名誉と恩賞を遺せるなら上出来、という価値観で生きています。
(※)時代によって多少は異なるものの、少なくとも『葉隠』においてよしと言及される武士とはそういう者で、名誉を失うことは武士として生きていく上で、致命的な痛手でした。
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