言葉は相手の為にこそ。山岡鉄舟が清水次郎長に教えられた真の「頭のよさ」とは?
よく「頭がいい」なんて言いますが、その定義は人によって様々です。難しい問題が解けたり、色んなことを知っていたり、ここ一番でよい智慧をひねり出したり……いずれも「頭がいい」とは思いますが、それだけでは今一つ足りません。
今回はその一つが何なのか、考えさせられるエピソードを紹介したいと思います。
仏に官軍も賊軍もねぇずら……次郎長の義侠心
時は明治、徳川家達(とくがわ いえさと。最後の将軍・慶喜の養子)に従って江戸から静岡(家達の移住に際して駿府より改称)へ移り住んだ山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)は、地元の侠客「海道一の大親分」こと清水次郎長(しみずの じろちょう)と意気投合、静岡藩(後に静岡県)の政治に一致協力することになりますが、そんな二人の出逢いは、次郎長の義侠心がキッカケでした。
明治元1868年9月18日、旧幕府海軍の軍艦・咸臨丸(かんりんまる)が清水港に停泊していたところを新政府軍が襲撃、乗組員は全滅。彼らの死体は新政府軍の咎めを恐れて誰も手を出さず、清水湾内を漂い、腐敗するままとなっていました。
これを座視するに忍びなかった次郎長は手下に命じて死体を引き上げ、向島の砂浜に埋葬します。
当然、新政府軍はこれを咎め立てますが、次郎長は「人間うっ死(ち)にゃあ誰もが仏、仏に官軍も賊軍もねぇずら」と毅然たる態度で突っぱねます。
それを知った山岡鉄舟は「近年まれに見る気骨の士である」と次郎長を称賛、得意の筆で「壮士墓(そうし=立派な男の墓)」と揮毫し、現代でも墓標に刻まれています。