悪役として描かれる忠臣蔵の「吉良上野介」は本当に悪人だったのか?:2ページ目
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実際、吉良家菩提寺の華蔵寺(けぞうじ)前にある義央の乗馬姿の像は、穏やかな顔立ちで、忠臣蔵や赤穂浪士で紹介される「極悪人」には到底見えません。
また、義央が事件のあとに移り住んだ屋敷跡は、現在公園として整備されていますが、園内には義央を神として祀った稲荷神社があります。
一方、被害者とされている浅野長矩は、随分のかんしゃく持ちだったうえ、財政難の藩を立て直すために領民に重税を課していたと伝わっています。そのため、浅野の切腹が知られると領民は赤飯を炊いたという話も残されています。
そもそも、刃傷事件の原因は儀礼に対する認識不足からくる浅野の不手際だったともいわれています。
その他にも、塩田の利権を巡って吉良が浅野に技法を教えたところ、浅野が彼の管轄にまで手を伸ばしたので吉良がこれを弾劾したことを逆恨みしたなど、どうも当時の状況からいっても浅野にとって都合の悪い話が多く出てくるようです。
結局、吉良義央と浅野長矩の間にどのようなトラブルがあったのか、その内容はいまなおはっきりしていません。
ただはっきりしていること、それは歴史上「悪役」とされた人物の評価も、時代や地域を変えればまた違った事実が見えてくるということです。
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