江戸時代、将軍のおそばに仕えた「側用人」どうして強い権力を持つようになったの?
日本史の教科書を読んでいると、江戸時代のところに「側用人(そばようにん)」という言葉が出てきます。有名な側用人としては、江戸幕府 第5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の側用人だった「柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)」があげられるでしょう。
一般的な感覚から言えば「側用人」は将軍のおそばに仕えている程度の意味で、政治的に力を持つとは考えられませんが、当時は、将軍の側近であり、将軍の命令を老中に伝える役割を持っていました。
実は、「側用人」という新しいシステムができたのは徳川綱吉が江戸幕府五代将軍に就任してからのこと。その背景にはクーデターともいえる大きな政変がありました。綱吉が将軍に就任したいきさつが、明らかに前例とちがっていたのです。
将軍職を三十年間務めた四代将軍・家綱は、おとなしい性格の人物として知られ、政治の決定も大老や老中に任せていたといわれています。
この時代には徳川政権も安定しており、側近でもかじ取りができる時代になっていたのです。中でも家綱将軍のもとで大きな力を発揮していたのは、「下馬将軍」ともいわれていた酒井雅楽頭忠清(さかいうたのかみただきよ)。
家綱には子供がいなかったので、酒井は将軍が跡継ぎのないままに亡くなったときのことを計画していました。それは、京都から若い親王を連れてきて、形だけの将軍に祭り上げ、政治の実権は老中・譜代門閥が握るという計画でした。ちょうど鎌倉時代の執権政治のような体制を酒井はとりたかったのでしょう。
ところが、この計画に反対したのが当時老中に就任したばかりの堀田正俊でした。
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