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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第32話

【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第32話:3ページ目

 

夢中だった。

 

 

「時」はきっと、誰の前にも平等である。

二人が生まれる遥か昔からそこに横たわっており、そして二人が死んだ後も恒久的にそこに横たわり続けるのであろう。

 

たとえば今はもう誰にも覚えのない幾星霜も昔、この吉原仲之町のまさにこの土の上で、誰かが同じようにくちびるを吸ったかも知れない。

 

それは、今となってはもう当の二人にしか分からない事だ。

知られずに消えてゆく贅沢というのが、世の中には確かに在る。

 

地味な羽織の裏を贅沢にするとか、そういう事より更に秘匿された、二人の胸の内にしかないとろけるほど優しい記憶。

 

そういう贅沢である。

 

その、誰かの胸の内に仕舞われたままの無数の贅沢な時の積層の上で、二人はくちを吸った。

 

木の葉を濡らす月光のようにさらさらと、白銀の花びらが二人の肩口に降り注ぐ。

 

その姿は雲母(きら)で摺りあげた錦絵のように大切で、美しく尊いものに思われた。

 

 

くちびるを離した後、みつは静かに言った。

 

 

「あたしさっき、一度でいいから国芳はんと同んなじように桜の色を見たかったって言ったでしょう。やっぱりあれ、取り消す」。

 

 

どうして、と国芳はみつの薄墨の瞳を覗き込んだ。

 

 

「だって、国芳はんと出逢って、あたしの心は沢山の色彩で溢れた。それなのにその上自分の目で色を見たいなんて、贅沢すぎるもの。本当に、こうして国芳はんに出逢えただけで、あたし」、

 

 

この時のみつの眩しい笑顔を、国芳は生涯忘れなかった。

 

 

 

「生まれてきてよかった」。・・・・・・

 

 

こういう気持ちを錦絵にするとしたら、どんな風に描き、どんな色彩で摺ればいいのだろう。

 

 

露草色のみずみずしい朝明(あさけ)の風が、二人の間を吹き抜けた。

 

 

国芳の耳元を過ぎる時、その風が永遠と囁いたように聞こえた。

 

 

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