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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第32話

【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第32話

「うん」

 

 

少しの間の後、みつは微笑んで頷いた。今までもそう頻繁に会えたわけではないし、国芳が売れれば今まで以上に会えなくなる事は自明であった。

 

 

「これから取り掛かる仕事は、今までのとは違げエんだ。『水滸伝』の揃物の武者絵だ」

 

「水滸伝の、武者絵・・・・・・」

 

 

みつの好きな、水滸伝である。

みつは口の中で噛みしめるように繰り返した。

 

「こねエだの大勝負の時にゃア一枚一枚手描きで時間もなかったから墨一色だったが、今度は日本橋の歴とした版元から出すからな、それア豪勢な多色刷りになるぜ。とんでもねエ色鮮やかな錦絵にしてみせらア。おみつの目にもその色が見えちまうくれエな。勿論、めえが何刻眺めても飽きねえように、線画もびっちり細かく丁寧に描き込む。今までめえが見た事もねえような面白エ絵に仕上げてやらア」

 

「うん」

 

「まずは、五枚出す。それが当たりゃアどんどん続きを出して、今までに見た事もねえくらいでっけエ揃物になるって計画だ」

 

「本当・・・・・・」

 

「安心しな、かならず当ててやらア。この吉原でも、皆がわっちの錦絵を買って集めたり飾ったり眺めたり、そんな光景が当たり前になるぜ。そしたらわっちゃア、めえに似合う豪奢な仕掛を染め上げて、大金持って今度は表門から正々堂々めえを迎えに来る。めえはその仕掛けを着て、わっちのもとに最後の花魁道中をすりゃアいい」

 

 

「夢みたい」・・・・・・

 

みつは眉をハの字にして微笑した。

 

 

「夢で終わらせねえ」。

 

 

「絶対よ」

 

 

「ああ、絶対。絶対だ。早いうちにかならず、かならず迎えに来る。だから、めえにゃア本当に苦労を掛けるが、それまでは何とか、紫野花魁として良い子に待ってな」

 

「うん。あたし、平気だよ」

 

「次にわっちの姿があの大門の向こうに見えたら、そッから先ゃアずうっと一緒だ」

 

 

「うん・・・・・・!」

 

みつは目をきらきらさせて頷いた。

 

 

「これ、交換だ」

 

 

国芳が、毎日欠かさず首から下げていた自分の掛け守りをしゃらりと外した。

 

 

「わっちゃアこれから毎日欠かさずこの掛け守りに、めえの幸せを願う」

 

 

「そんならあたしは、国芳はんの幸せを。・・・・・・」

 

 

みつも、懐から同じものを取り出して、国芳のものと取り替えた。

 

国芳は、不覚にも涙を落としそうになって狼狽した。

 

 

目の前の女は出会った時と何ら変わらずに、みずみずしく美しい色を持っている。

しかし表情までもこんなに色彩豊かだったろうか。

彼女は今ようやく一点の曇りなく晴れ渡った幸せな表情をしている。

ここまで来るのに、どれほど掛かったろう。思えばみつと出会ってから二度、四季が巡った。今はもう、三度目の春を沿って歩いている。

 

 

早春に出会い、夏に戯れ、秋に語らい冬に寄り添った。そしてまた同じ春が来ても、みつと過ごす季節はいつも新しく特別で、大切だった。

隅田川の大流のように色やかたちを変えながら滔々と流れゆく日々の中で、そこにあるのはたった一つ変わらずに、湧き水のように滾々と湧き続ける澄んだ思いであった。

 

 

「あ、たんぽぽ」。・・・・・・

 

 

みつがしゃがんで、足もとの黄色い花を指した。

 

 

「本当だ」

 

 

国芳はそれを摘み取り、女の前髪に挿した。

 

 

「あたし、国芳はんと出会う前はこの狭い鳥籠(くるわ)の中の事以外は何も知らなかった。本当に何も・・・・・・この、たんぽぽの花の名前すら知らなかった」

 

 

「ああ。でも今アもう知ってる。この花の名も、色も、匂いも。みイんな、おみつの手のひらの中にある」

 

 

挿した花と同じ、陽の差すような明るい笑顔を女はした。

 

 

(やっぱりめえは、たんぽぽみてえな女・・・・・・)

 

 

たんぽぽのように優しく可憐で、明るく逞(たくま)しく、そして美しい。

その透きとおった薄墨の瞳を四季折々の花のもとに見つけるたび、国芳は何度でも女に恋をした。

 

 

「おみつ」、・・・・・・

 

「めえが、好きだ」。

 

国芳は下を向いて、ふと呟いた。

 

 

めえじゃなきゃ、わっちゃアただのつまらねえ凧売りのままだった。

 

 

国芳は耳まで真っ赤にしながら、ぼそぼそと言った。

 

 

「あたしも」。

 

みつがとろけるように微笑(わら)った。

 

 

あたしもあんたじゃなきゃ、ただ色を失くした哀しい女郎のままだった。

 

 

「あたしたちは一緒じゃなきゃ、きっと駄目だった」。・・・・・・

 

 

枝垂れ桜の花の陰翳(かげ)で、二人は静かにくちびるを重ね合わせた。

 

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