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徳川家康は替え玉?家康は戦死し、実は影武者だった説を検証

徳川家康は替え玉?家康は戦死し、実は影武者だった説を検証:2ページ目

また、堺の南宗寺には「家康の墓」と称される墓があります。これは、近代になってから関西系の起業家たちの篤志により建立されたもので、もちろん当時のものではないのですが、元になった文書があります。それが「堺鏡」。

そこには家康が討たれたという記事があり、寺そのものにも徳川秀忠や徳川家光が墓参りに来た際の奉納物がいくつか伝えられています。このことを考えると、南宗寺には大阪で討たれた家康の亡骸が埋まっているのでしょうか。

家康の影武者説は1902(明治35)年に村岡素一郎が『史疑徳川家康事績』という作品を上梓してから、人々の間で流行り、隆慶一郎が『影武者徳川家康』を原作としたコミックで人々に広く知られるようになりました。

そもそも、戦国の世において影武者説は徳川家康に限らず、珍しいものではなかったようです。

一国を統治する武将の生死は自国のみならず、隣国や同盟国の命運を変えることもあります。

そのため、本人への直接的な危害や危険をそらすために影武者が用意されていました。

影武者に関する話で最も有名なのが、故事「元の木阿弥」の元となった筒井順慶の父、筒井順昭のエピソード。

3ページ目 「替え玉」は戦国時代を生き抜くための秘策?

 

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