手洗いをしっかりしよう!Japaaan

平安時代の悲劇のヒロイン、源頼朝の長女「大姫」その悲恋と貞操の生涯(下)

平安時代の悲劇のヒロイン、源頼朝の長女「大姫」その悲恋と貞操の生涯(下):3ページ目

その後・大姫の死と周囲の反応

その後も頼朝公は大姫の入内(じゅだい。この場合は後鳥羽天皇との縁談)を働きかけるなど手を尽くしましたが、結局すべて失敗。

かくして建久八1197年7月14日、義高への想いを貫き通して、大姫は20歳の若さで亡くなりました。

幼くして最愛のパートナーを奪われ、心に土足で踏み入られるような仕打ち(※頼朝公らにすれば、せめてもの誠意だったかも知れませんが)に耐え続けた、まさに「悲劇のヒロイン」でしたが、『吾妻鏡』をひもとくにつれ、必ずしもみんなが同情的でなかった様子も垣間見えます。

例えば、こんな記述。

「将軍家の姫君、夜より御不例。これ恒(つね)の事たりといへども……」
※建久五1194年7月29日条、御不例とは病気のこと。

この頃、大姫の病気はもう「恒(常)=いつもの事」と認識されており、同年11月10日条「姫君また御不例」などの記述と同様、周囲の「いつまで昔の事を引きずってんだよ……」的なうんざり感が伝わります。

しかし、その一方で、

「……志水殿(義高)事あるの後、御悲歎の故に日を追ひて御憔悴。斷金の志に堪へず、ほとほと爲石の思ひに沈みたまふか。かつは貞女の操行、衆人美談するところなり」
※建久五1194年7月29日条

など、10年経っても許婚を忘れず想い続ける姿に、感動する者も少なからずいた事が察せられます。

終わりに

大姫は許婚である木曽義高と同じ常楽寺(鎌倉市大船)の裏山に葬られ、今も心ある方が献花・焼香されています。

また、ところ変わって亀ヶ谷辻(鎌倉市扇ガ谷)では、大姫の死と悲恋を悼んだ北条・三浦・梶原らの御家人が野辺送りを執り行ったと『北条九代記』に伝わり、やがて彼女の菩提を弔う岩船地蔵堂が建立されて今日に至ります。

頼朝公の政略に翻弄されつつも、けなげに純愛を守り通した大姫の人生は、困難に屈しない愛情の尊さを伝え続けることでしょう。

 

RELATED 関連する記事