平安時代の悲劇のヒロイン、源頼朝の長女「大姫」その悲恋と貞操の生涯(下):2ページ目
大姫の病気は、頼朝公への「神罰」?
その後も観音様にお参りしたり、気晴らしの田楽奉納なども行われたりしましたが、大姫の病状はあまりよくならず、一進一退を繰り返していました。
ところで『吾妻鏡』の記録を追っていくと、大姫の病状が頼朝公の動きと連動しているパターンが見られます。
例えば建久四1193年8月、頼朝公が異母弟・源範頼を謀叛の疑いで処罰しようとした時のこと。頼朝公は、範頼の些細な一言を元に粛清を考えていると、大姫の容態が急速に悪化。慌てた頼朝公が範頼の刑罰を軽く(と言っても、伊豆への流刑に)したところ、一週間ほどで回復したそうです。
こうした事が度々あったため「大姫の病気がいつまで(義高の殺害から9年)経っても治らないのは、頼朝公があまりに御家人を罰することに対する神罰ではなかろうか」と言う噂もあったようです。
頼朝公もさすがに気にしていたのか、大姫が回復すると、激務の間を縫って観音様へお礼参りに行っていますが、「武士の世」を創るためとは言え、頼朝公も野望と家族愛との狭間で葛藤していたのかも知れません。
一条高能との縁談、そして懲りない頼朝公
しかし、頼朝公としては愛娘であると同時に政治戦略の重要な「手駒」でもある大姫を、いつまでもそっとしておく訳にも行きません。
建久五1194年、大姫は17歳に成長しており、当時なら結婚していて(嫁に出されていて)当然の妙齢です。そこで頼朝公の考えたのは、公家との政略結婚によって、朝廷の政界に足がかりをつくることでした。
ちょうど京都には妹・坊門姫の嫁いだ一条家がおり、その嫡男・一条高能が鎌倉に下向。頼朝公の甥に当たるこの高能と結婚させれば、大姫の心も癒されようし、自分の政略も有利に進む(だろう)。
そんな能天気なことを考えていたのかどうか、大姫の体調が回復した8月18日、政子づてに高能との縁談を持ちかけてみたのでした。
政子にしても、いまだ義高を想い続ける大姫の気持ちは知りながら、もう10年も経つし、そろそろ新しい恋に踏み出しても……と思ったかどうか、ともあれ大姫に話をすると、
「可沈身於深淵之由被申云々(大意:深淵に身投げすると申せられ……)」
要は「絶・対に嫌!そんな事したら身投げしてやるから!」とばかりの拒絶反応を示し、結局破談となってしまいました。
さすがに頼朝公も謝ったようですが、性懲りもなく約2週間後、三崎(現:神奈川県三浦市)に建てた別荘の新築祝いに家族旅行へ出かけた時、大姫と一緒に高能も同行させています。
もしかしたら「実際会ってみれば、素敵な男性かもよ?ちょっと会ってみるだけでもさ。ね?」とか思っていたのかも知れませんが、大姫の感情はもちろん、高能の気まずさが察せられます。