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千五百 VS 十万?薩摩武士の精強さを天下に知らしめた、関ヶ原の戦い「島津の退き口」

千五百 VS 十万?薩摩武士の精強さを天下に知らしめた、関ヶ原の戦い「島津の退き口」:5ページ目

その後・ある古武士の涙

さて、関が原から十数年後。

かの死地から生還した中馬重方(ちゅうまん しげかた)という古武士が、鹿児島からやってきた若者たちに関が原での話を聞かせたそうですが、

「関ヶ原と申すは……」

重方はそう語り始めるなり声が詰まり、涙にむせんで言葉が出なかったと言います。その様子を前にした若者たちは、後に「今まで関ヶ原の話は数多く聞いたが、彼の話が最も優れていた」と語りました。

それは何の技巧も演出もない、彼がただあの場で感じ、身体に刻み込まれたままを、誠心誠意伝えた結果に他なりません。

あの場にいた、薩摩武士の誰もが願ったこと。

「御大将・義弘を守り抜く」

命を惜しまず戦い抜いた結果、自分は生きてここにいる……そんな複雑な胸中が、彼の喉を詰まらせたのかも知れません。

終わりに・義弘公の辞世と維新への血路

その後、島津家は二世紀半にわたる忍従の果てに復讐(倒幕)を遂げるのですが、その動機は常に「関ヶ原(の敗戦)」であったと伝えられます。

たとえどれだけ歳月が過ぎようと、死んでいった仲間たちの想いを受け継ぎ続けた薩摩武士たちの絆こそ、明治維新を成し遂げた原動力の一つと言えるでしょう。

この明治「維新」という呼称ですが、義弘公の法号(出家した名前)である「惟信」にちなむものと言われています。

春秋の 花も紅葉も 留まらず 人も空しき 関路なりけり
(大意:花も紅葉もはかなく散り、それを見る者さえいない関所の路よ)

この二首は、元和五(1619)年7月21日に義弘公の遺した辞世ですが、関路とはまさしく「関ヶ原の退却戦」を暗喩しながら、あえて「空(むな)しき」と表現する辺りに、「島津の退き口」を成し遂げた薩摩武士の意地と、家臣たちへの想いが偲ばれます。

四百年前、関ヶ原で切り拓かれた維新への血路――「島津の退き口」は今なお聞く者の胸を沸かせ、先人たちの勇気と大義を奉ずる自己犠牲の尊さを伝え続けます。

 

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