千五百 VS 十万?薩摩武士の精強さを天下に知らしめた、関ヶ原の戦い「島津の退き口」:3ページ目
なぜ退却に成功したのか?
それにしても不思議なのは、千五百で十万の敵に包囲されながら「なぜ全滅せず脱出できたのか」です。
その理由は、大きく三つ考えられます。
理由その一:島津兵の実力が全国に知られていたこと
現代でも「九州男児」は「たくましい男」の代名詞ですが、当時から九州の兵、特に薩摩武士の精強さは広く知られていました。
先年の朝鮮出兵において、島津軍一万が明軍二十万を撃退して「石曼子(シーマンズ)」と恐れられたことなど、その武勇伝は枚挙に暇がありません。
いくら圧倒的優勢であっても、一対一で立ち向かえば自分が負ける・殺される……そう思えば、東軍兵士の一人ひとりがつい尻込みしてしまうのも、無理からぬところでしょう。
理由そのニ:東軍が勝利に奢り、命を惜しんだこと
そもそも、もう決戦は終わって東軍は勝利を確信、誰もが「勝利の恩恵にあずかりたい」つまり、島津軍なんかの相手をして「死にたくない」と思っています。
ただでさえ強い島津軍が死に物狂いで襲いかかって来ると知りながら、あえて追いかけたくなんてない(出来れば見逃したい)のです。(※そもそも戦うのは恩賞=生活のためであり、命に代えても武名を後世に残したい武士ばかりではないのです)
結局、特に勇敢だった本多忠勝・井伊直政らが少数で執拗に追いすがり、銃弾を浴びる結果となっています。
理由その三:誰もが御大将・義弘のため、命を惜しまず役割に徹したこと
とは言え、死にたくないのは島津軍だって同じこと。ただ自分が強くて相手が及び腰なだけでは、千五百と十万の圧倒的兵力差を覆すことは難しいでしょう。
しかし、薩摩武士は違いました。
あくまでも「御大将・義弘を生還させる」事を目標と定めた以上、誰もが自分の命を惜しみませんでした。
だからこそ「捨て奸(がまり)」は威力を発揮したし、義弘が指名した以外の者さえも捨て奸を熱望したと伝わります。
義弘がいかに家臣たちから敬愛されていたかが偲ばれるエピソードです。
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