鎌倉市のシンボルマークには「笹竜胆(ささりんどう)」の家紋がデザインされていますが、これはかつて、源頼朝公が幕府を開かれたことに由来します(ちなみに、鎌倉市のシンボルフラワーも竜胆です)。
源氏と言えば笹竜胆……というイメージは今日広く知られており、源氏ゆかりのスポットには、あちこちで笹竜胆を見かけることが出来ます。
しかし、それが高じて「頼朝公は源氏の棟梁」「源氏の紋は笹竜胆」「だから、頼朝公の家紋は笹竜胆」と誤解されている方もいるそうで、今回は鎌倉武士の家紋文化について紹介します。
鎌倉武士の家紋文化
さて、家紋の文化は元々公家(貴族)の発祥ですが、それが武士達に広まったのは平安末期、平氏滅亡後と言われています。それまでの源平合戦期は源氏なら白い(又は南無八幡大菩薩)旗、平氏なら赤い(又は南無妙法蓮華経)旗を掲げて敵味方を識別していました。
しかし元暦二(1185)年、壇ノ浦の戦いで平氏(清盛の息子・宗盛ら一門)が滅亡した後は、基本みんな「源氏(頼朝公)の味方」となっています。
そんな文治五(1189)年、常陸(現:茨城県)の佐竹隆義は奥州藤原氏征伐に参陣しましたが、従来通りに無地の白旗を掲げていた事を頼朝公に咎められました。
「平氏が滅亡して世はみんな白旗(源氏の味方)なので、紛らわしいから印をつけなさい(意訳)」
そう言って満月を描いた五本骨の扇を下賜して旗頭につけさせた(佐竹氏の家紋・佐竹扇の由来)とも言われますが、それ以来、他の御家人たちも白旗に家紋を描くようになったそうです。
このエピソードは、単に識別のみならず「無地の白旗を掲げる資格がある『源氏の嫡流』はあくまで自分一人なのだ」というメッセージであったとも言われ、義経公はじめ、多くの源氏一族を粛清して権力基盤の確保に必死だった頼朝公の焦燥感が偲ばれます。
つまり、鎌倉武士の家紋とは頼朝公が御家人たちにつけさせたもので、自らは「無紋(白無地)」をシンボルとしていました。
「マークなんか無くたって、俺が誰だか判る筈だ!」
そう言わんばかりの傲慢っぷりに、いっそ清々しさを感じてしまいますが、まさに「天下人の境地」を体現していたのでしょう。