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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第8話

【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第8話:2ページ目

女は真っ直ぐ国芳を見つめたまま、翡翠のような涙をぽろぽろと落とした。国芳は狼狽を隠せない。

「あたし、十二の時に高い熱で死にかけて、治って目が覚めた時からこの目」、

薄桃のくちびるが、かすかに震える。

「色が、見えない」。

「そうか。・・・・・・」

国芳の極彩色の絵が、みつにはつまらなく思えた理由が分かった。国芳がこだわっていた色そのものが、彼女の目には映らなかった。

「誰にも言った事ないよ。知られたら花魁を降ろされちまう。それどころか見世を追い出されるかもしれない。毎日怖いの。記憶と明暗だけで見分けて、ものの匂いや感触や何でも片っ端から憶えて、皆と変わらずに生活出来るように自分で訓練したの。必死だった」

みつが言うにはその目は光にも弱く、昼間に陽光の下に出ると光が目に刺さって痛むために外出もままならない。反対に早朝や夕刻以降の陽のない時間は、微妙な明暗の差ですら昔より一層鮮明に見分けられるのだという。

「床の中の事もあんまり憶えが良くて、仕込みに気味悪がられた。生娘じゃないと思われて、行燈部屋で折檻もされた。それでも女郎にしかなれないから、どうしたら男が喜ぶのか、死に物狂いで覚えてやってきた。汚いの、あたし」

思い詰めた眉根も怯えたまなざしも震える声音も、全てがさっきまで国芳の見ていたみつとは別人で、しかし全てが紛れもなくみつであった。

「毎年お正月に、楼主があたし達一人々々に新しい小袖をくれるんだ。あんたと初めて会った日に着ていたやつ。嬉しいのに、それがどんな色なのか分からない。あんたのこの絵の色も、前にくれた凧の色も、このたんぽぽの花の色すら見えない」

みつは顔を覆って啜り泣いた。

国芳はおろおろとうろたえるばかりであった。

惚れた女の涙を見てなんと声を掛けるのが正しいのか、不器用な江戸の職人の男には少しも分からない。

分かるはずもない。

男は色を操り、色のある絵を描く事しかできないのだから。

ぎこちない手つきで細い肩に触れようとした手を、女は払いのけた。

「もう、あたしの所には寄らないで。こんな絵、全然嬉しくない。面白くなんかない。あんたはとっとと吉原から出て行って、娑婆であんたの絵を面白いと言ってくれる女見つけて、勝手に幸せになんな!」

「おみつ・・・・・・」

「出てけ!あたしはおみつじゃない。京町一丁目岡本屋の、紫野花魁だよ!」

国芳はしばらく粘ったが、みつがこちらを向く事は二度となかった。

男が去った後、床に小さな花が落ちているのを見つけて、みつは泣き伏した。

本当は、嬉しかった。

会えなかった三月(みつき)の間、国芳が自分を笑わせるために「面白い絵」をずっと模索してくれていたのだと思うとそれだけで涙が出た。

しかし互いのためを思うならば、国芳は娑婆の女と恋をし結ばれるべきであったし、みつはこの吉原遊廓で花魁として在り続けるべきであった。

あのまま国芳の優しさに甘え続けたら、

(きっとあたしは、駄目になる)

初めの日はからかうくらいの気持ちだったのに、今日もう一度会って分かった。

自分はこの男に心を揺らしていると。

みつはそっと瞼を閉じる。

これ以上、踏み込んではいけないし、踏み込ませてはいけない。

みつの心は、巨大な瞼によって閉ざすように覆われている。

瞼を閉じてしまえば大丈夫だ、とみつは思った。

大丈夫。

何もなかった時にきっとまた、引き返せる。

作中イラスト:筆者

 

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