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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第6話

【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第6話

呼吸(いき)を吸えば、鼻腔いっぱいに芳烈な花の香りが広がる。指先に触れる空気の感触すらも、昨日までのそれとは変わりいっそう凛と澄み渡っている。

(この桜はあたしら女郎にはきっともったいない。けれど娑婆の女には絶対、譲りたくない)

みつには、この可憐な桜の一輪々々が吉原遊廓の女郎一人々々を象徴しているように思えた。そして、太い長路の真ん央を貫く幾千の桜の真一文字は、吉原に生きる女の意気地そのものであった。

「アア、今年も」、

昨晩身を任せた馴染(なじみ)の客が、一歩先をゆるりと歩きつつ口を開いた。伊勢屋長兵衛といい、日本橋本船町の油問屋の主人である。齢十三の時にまだ処女(おとめ)だったみつを水揚げしたのも彼だ。その時の事を思うと今でも胸が狭まり呼吸(いき)が苦しくなるが、十年の付き合いの長さはどうしようもない情を生んで、不思議と憎む気にはなれない。

「吉原の遊郭に春が巡ってきたんだねえ 」。

夜明け前の、まだ白い月の浮かぶ幽玄の空に夢より淡い桜がかすむ。五十路過ぎの長兵衛にはその光景は眩しかったのか、眦に細かい皺の走る目を細めてそう言った。

「ええ。・・・・・・」

みつは彼を見上げて微笑んだ。

「綺麗だよ、紫野」

紫野という源氏名で呼ばれたみつは、淡く微笑み返した。

誰よりも千本桜の良く似合う、凛とした花魁の表情が、そこにあった。

 

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