昭和時代の娯楽の王様だった紙芝居屋のおっちゃんはいったい何者だったのか?:3ページ目
紙芝居屋の収入源は? そして正体は…
そんな紙芝居屋が、何で利益を得ていたのか知っていますか。街頭紙芝居はボランティアではなく、れっきとした商売でした。昭和の前半、全国津々浦々に紙芝居屋が現れたのは、商売として成り立っていたからです。
利益と聞いて、多くの人が真っ先に思いつくのは「見物料」でしょう。「子どもたちは見物料を支払って紙芝居を見ていた」と考えるのは自然といえます。しかし子ども達は、映画のようにチケットを買って見たわけではありません。買ったのは「飴」でした。
子どもから小銭を受け取ったおじさんは、箱から取り出した水飴などを渡します。これで商売成立。飴を買ってくれた子どもにのみ、紙芝居を見る権利が与えられるというシステムなのです。あくまでも売り物は飴で、紙芝居は人寄せの道具、オマケという立ち位置でした。
つまり紙芝居屋の正体は「飴屋」だったのです。本来的には大道芸人ではなく、行商人であり露天商でした。芸は人を寄せるためのもので、目的は品物を買ってもらうこと。バナナのたたき売りやガマの油売りの仲間といえます。
売られるものは最初は棒飴でしたが、次第に水飴など種類が増え、さらにソースせんべいなど他の駄菓子も加わりました。さながら「移動する駄菓子屋」だったため、町の駄菓子屋にライバル視された時代もあったそうです。
このように路上でパフォーマンスし品物を売る商売人は、江戸時代から存在しました。
なかでも飴売りは派手だったといいます。奇抜な衣装を身につけて街頭を歩き、楽器を奏でたり歌を歌ったりしながら飴を売りました。
そのスタイルは実に多種多様でした。代表的なものはチャルメラを吹く「唐人飴売り」、落語の題材になった「孝行糖売り」。その他、江戸時代なら「念仏飴売り」「奥州人土平」、からくり人形を操った「鎌倉節飴売り」などなど。
根岸鎮衛の随筆『耳袋』などの書物にも飴売りの様子が記録され、鈴木其一をはじめ画家たちもその姿を描きました。
文明開化後も飴売りの姿は見られ、写真も残されています。提灯や旗を刺した大きなたらいを頭に乗せ、太鼓をたたきながら歩いた「よかよか飴売り」は、インパクト大です。
こうした飴売りは江戸時代から明治時代にかけて全国に広まり、昭和の前半まで各地で見られました。主に子どもの人気を集めたようです。
紙芝居屋は、そんな路上の飴売りの末裔といえる存在でした。