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紫式部が仕えた一条天皇の中宮、12歳で天皇に入内した平安時代のプリンセス 藤原彰子

紫式部が仕えた一条天皇の中宮、12歳で天皇に入内した平安時代のプリンセス 藤原彰子:2ページ目

権力者の父の意に反し、亡き皇后定子の子を次期天皇に推した彰子

彰子の夫である一条天皇が退位した後、天皇には彼の従兄弟にあたり、「小倉百人一首」に「三条院」として歌が取り上げられている三条天皇が即位しました。

外戚政治を目論んでいた藤原道長はその際、母の皇后定子が亡くなりその外戚も既に没落して後ろ楯のなくなっていた第一皇子・敦康(あつやす)親王ではなく、彰子の子で自分の孫である第二皇子・敦成(あつひら)親王を当然の如く新皇太子に立てました。

画像出典:紫式部日記絵巻断簡(東京国立博物館蔵)/Wikipedia

ところがこれに反対したのが、なんと中宮彰子でした。実は母である定子亡き後の敦康親王を、手元で母親代わりとなって養育していたのは彰子だったのです。それに加え、一条天皇も定子の忘れ形見である敦康親王の立太子を望んでいました。

にもかかわらず、道長はなかばゴリ押しで敦成親王を皇太子に定めてしまいます。

更に道長は、次女で彰子の妹にあたる妍子(けんし・きよこ)を中宮に上げた三条天皇にも圧力をかけて退位に追い込み、わずか8歳の敦成親王を後一条天皇として即位させてしまいます。

これにより摂政となり、天皇の外戚としての権力を不動のものとした道長は、三条天皇が自身の退位と交換条件で立太子させた敦明(あつあきら)親王もゴリ押しで退かせ、後一条天皇の弟で自分の孫の敦良(あつなが)親王を皇太子とします。

まさに「やりたい放題」の父を、娘の彰子も苦々しく思っていたであろうことが、当時の『権記』『栄華物語』などに残されています。

3ページ目 栄華の後の彰子の後半生って?

 

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