平安時代版SNS、清少納言の「枕草子」は不遇の中宮定子を慰めるために生まれた?:2ページ目
清少納言が『枕草子』を書き始めた、その時
清少納言は一条天皇の中宮定子に出仕した女官でしたが、実は『枕草子』が書き始められた当初、清少納言は一時宮中から下がり家に引きこもっていました。河出書房新社『日本古典文学10 枕草子・方丈記・徒然草』の訳文(田中澄江訳)の最後の章段によると、「これは、見たり考えたりしたことを、まさか誰の目にも触れないであろうと、家にひきこもっている日々の徒然のままに書き集めたものである。」とあります。
彼女が引きこもった原因は、定子の実家である中関白家の没落に繋がった「長徳の政変」で、清少納言が政敵側と内通していたのではないか、という疑惑を同僚たちから持たれたことでした。
当時定子は一条天皇との第1子を懐妊していましたが、政変に加えて自宅の火事、儀同三司母の通称で知られる女流歌人であった母の貴子の死などの不幸が重なり、絶望して髪を切り、出家してしまいます。そして大きなストレスに打ちのめされたためか、出産までも予定日より2ヶ月も遅れました。