すべてが新しかったエンタツ・アチャコ。ドラマ「わろてんか」で注目、漫才の歴史 [近代編]:2ページ目
万歳と漫才の間に~改革者・円辰と捨丸~
もともと河内音頭や江州音頭の音頭取りだった円辰は、尾張万歳から分派した伊六万歳を学んだといわれています。その上で、太夫と才蔵の掛け合い噺に、踊り・都々逸・民謡・阿呆陀羅経・数え歌・謎かけなどを組み合わせたショーを作り出しました。これまでより一段とバラエティ色を強めた万歳です。
一座を組んで「名古屋万歳」の看板をかかげて大阪で興行すると、これが大当たり。すぐに真似する者が現れ、それぞれの持ち芸に太夫・才蔵の掛け合いを加えた芸が、あちこちで演じられました。
これら三曲万歳から派生した「音曲+諸芸+掛け合い噺」による寄席芸は「万才」とも称されました。神事の色を薄めたエンターテイメントとして“まんざい”を生み出した功績から、円辰は上方漫才の祖と呼ばれることになります。
しかしこれは、我々の知る漫才から遠い姿をしていますね。近代万歳は常に変化する芸能でした。明治末期から大正時代にかけて、音曲や諸芸をつなぐ掛け合い噺、つまり「しゃべくり」に特化した万歳が動き出します。
そのトップランナーが「砂川捨丸」という芸人です。彼も江州音頭の音頭取りでしたが、流行に乗って万歳興行をはじめました。
捨丸は円辰式の万歳に改良を加え、2人の掛け合いを中心にまとめながら、得意の唄を加えるいう新しいスタイルを生み出しました。手には鼓、紋付き袴姿という衣装も特徴的な捨丸の芸は「高級萬歳」と名付けられます。
これが評判を得て、捨丸はレコードを発売しヒットを飛ばします。当時、関西では人気でも全国ではマイナーだった寄席万歳をメジャーにすることに、捨丸は大きく貢献しました。
捨丸は何人かとコンビを組みましたが、一番長く続いたのは中村春代です。彼女がハリセンで捨丸を叩く、鋭いツッコミもコンビの魅力でした。
2人は『わろてんか』に登場する万丈目夫妻のモデルのひとつかもしれません。ただし、よく誤解されますが捨丸・春代は夫婦ではありません。しかし2人は昭和46年に捨丸が亡くなるまでコンビであり続けました。
そして「まんざいの骨董品でございまして」が決まり文句だった捨丸は、最後まで鼓を持ち続けます。改革者でありながら、古き万歳の名残を残した芸人でした。