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「卑弥呼」は偉大な女王だった!「三国志」の動乱を読み大国・魏から“破格の待遇”を勝ち取った知略

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魏・呉・公孫氏が絡んだ、遼東・朝鮮半島の政治情勢

237年、遼東半島に独立政権を築いていた公孫氏の4代目・公孫淵が魏に背きます。これを受けて、翌238年、司馬懿は曹叡の命を受けて公孫淵を攻撃しました。

『三国志』の「魏志東夷伝」には、「倭や韓が帯方郡に従っていた」ことが記されていますが、この帯方郡とは、公孫氏政権が設けたものです。

また、遼東半島は、朝鮮半島と中国大陸の中間にある軍事・外交の要衝であり、古代から近代に至るまで、極めて重要な地域でした。

それゆえに魏と呉が、遼東半島を押さえる公孫氏政権を味方に引き入れようとするのは、至極当然なことであったのです。

232年、公孫淵は魏ではなく、呉の孫権に従う姿勢を見せます。孫権は強力な水軍を背景に、海上から魏の背後を脅かす戦略をたて、そのために公孫淵を味方に引き入れようと動いたのです。

当然のことながら、この呉の動向に魏は警戒を強めます。そして、公孫淵に圧力をかけ、呉から使者が来たら殺すよう命じ、公孫淵はこれに従い呉の使者を殺害しました。

こうして魏に従う意思を示した公孫淵でしたが、それでも魏は公孫氏政権への圧力をやめません。

そして234年、『三国志』を彩った偉大な英雄がこの世を去ります。劉備の死後、蜀を支え魏と対峙してきた諸葛亮が病に倒れ、陣中に没したのです。

これを機に、魏は本格的に呉の影響力を遼東半島、朝鮮半島から駆逐しはじめます。そして、238年、ついに魏は4万の大軍を動かし、公孫淵を滅ぼしました。

公孫氏政権の滅亡により、呉と公孫淵による海上から魏を挟撃する可能性は大きく後退しました。そして魏は倭(邪馬台国)を味方に引き入れ、逆に呉の背後を牽制する構図を描いたのです。

3ページ目 卓越した国際感覚と外交戦略を備えた卑弥呼

 

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