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【豊臣兄弟!】3歳で散った儚い命…茶々(井上和)と秀吉の“初めての子” 鶴松、溺愛の果てに訪れた絶望

【豊臣兄弟!】3歳で散った儚い命…茶々(井上和)と秀吉の“初めての子” 鶴松、溺愛の果てに訪れた絶望:3ページ目

必死の祈祷も甲斐なく世を去る

翌天正19年(1591年)閏1月3日、鶴松は病床に臥せてしまいました。秀吉は大急ぎで全国の神社仏閣に命じて病気平癒の祈祷に当たらせます。先月(天正19・1591年1月22日)に豊臣秀長(仲野太賀)が亡くなっていたことから、より一層心細く、不安だったことでしょう。

必死の祈祷が功を奏したからか、しばらくして鶴松の病状は回復しますが、8月2日になって再び鶴松は重篤に陥りました。今度こそダメかもしれない。秀吉はなりふり構わず全国の神社仏閣に病気平癒の祈祷を命じただけでなく、自身も東福寺(京都市東山区)に籠もって祈祷したと言います。

鶴松の下には天下の名医を片っ端から掻き集めたそうですが、祈祷も治療もその甲斐なく、鶴松は世を去ってしまいました。時に天正19年(1591年)8月5日、享年3歳でした。

秀吉の落胆ぶりはすさまじく、8月6日に自らの髻(もとどり)を切って鶴松の遺体に手向けたそうです。この時に徳川家康(松下洸平)や毛利輝元(濱省吾)ら諸大名や近臣らもこれに従って髪を切り、集まった髪の束が塚のように盛り上がりました。

※亡くなった鶴松を想い、秀吉が詠んだ和歌があります。以下の記事で紹介していますので、ぜひご覧ください。

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傳役であった石川光重の計らいで葬儀を妙心寺(京都市右京区)で執り行い、祥雲院殿玉厳麟公神童(しょううんいんでん ぎょくげんりんこうしんどう)の戒名が送られます。8月7日に秀吉は心身を鎮めるために清水寺へ参詣し、8月9日には有馬温泉へ湯治に向かいました。もちろんそれで秀吉の気鬱が晴れることはなかったでしょう。

やがて秀吉は方広寺(京都大仏)の隣に鶴松の菩提寺を建立することを決めました。文禄2年(1593年)に完成した祥雲寺の開山には南化玄興(なんか げんこう)を迎え、棄丸人形像(豊臣鶴松像)を祀らせます。寺には300石が寄進され、鶴松の遺品やかつて蒲生氏郷が贈った名刀などが奉納されたということです。

終わりに

今回は秀吉と茶々の間に誕生した嫡男・豊臣鶴松の生涯をたどってきました。

鶴松を喪った悲しみから、二度と子供は捨てまいと思ったのでしょうか。次に生まれた男児には拾丸(ひろいまる。後の豊臣秀頼)と名づけて、大切に大切に育て上げたのでした。

果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、仇敵である秀吉との間に生まれた我が子を、茶々はどのような思いで抱くのでしょうか。

彼女の心境がどのような変化を見せていくのか、これからも注目していきたいですね。

茶々に関する話題は、こちらの記事でも紹介しています!

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※参考文献:

  • 桑田忠親『新装版 淀君』吉川弘文館、1985年6月
  • 渡辺世祐『豊太閤の私的生活』講談社、1980年6月
 

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