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死んだ方がマシだった?大坂城を脱出した淀殿の悲劇的な生存説を紹介

死んだ方がマシだった?大坂城を脱出した淀殿の悲劇的な生存説を紹介

時は慶長20年(1615年)5月8日、かつて戦国乱世を制した天下人・豊臣(とよとみ)家の栄華を象徴していた大坂城が紅蓮の炎に包まれ、灰燼に帰していく……そんな世の無情を思わせる大坂夏の陣

大坂城主であった豊臣秀頼(ひでより)はもちろん、その母であった淀殿(よどどの。茶々)らも焼け落ちる城と運命を共にしたと伝えられています。

しかし日本人は弱い者に肩入れする「判官びいき」が好きで、実は彼らが生きていたとする「生存説」を唱える者も少なくありません。

もし淀殿が死んでいなかった……としたら、大坂城を脱出した彼女は一体どこへ行ったのでしょうか。

と言う訳で、今回はそんな淀殿生存説の一つを紹介。真偽のほどはともかく、とても興味深いですね。

遠路はるばる上州へ……

「……ここまで来れば、まずは一安心にござろう」

焼け落ちてゆく大坂城を遠く離れ、淀殿の駕籠を護衛していたのは秋元越中守長朝(あきもと えっちゅうのかみながとも)。

豊臣家を滅ぼした徳川家康(とくがわ いえやす)に与する老将ですが、どういう訳か淀殿を手引きして大坂城から脱出させました。

(皆の者……)

せめて母には助かって欲しいと言う秀頼最期の願いを聞き入れたのか(あるいは秀頼も別の生存説に従ってどこかへ脱出したのか)、後ろ髪を引かれる思いで遠路はるばる秋元領の上州惣社(現:群馬県前橋市)を目指します。

「さぁ、間もなくにございまするぞ……」

「……ご苦労」

果たして惣社に匿われた淀殿は、かつての栄華にこそ及ばないものの、越中守の歓迎を受けて、何不自由なく余生を送るのかと思われましたが……。

辱しめに耐えられず……

「何をする、この無礼者め!」

身柄を保護されてから間もなくして、淀殿は越中守によって手籠めとされてしまいます。

「そなたが悪いのじゃ。我が想いを知りながら、それを受け入れなかったのだから……」

越中守が淀殿を助けたのは、単に我がものとしたかったから。彼女(永禄12・1569年ごろ生まれ)は落城時点で47歳。かつてほどではないにせよ、その美貌は十二分に人を惹きつけたようです。

かくいう越中守は天文15年(1546年)生まれなので、落城時点で70歳。現代でもじゅうぶん老齢ですから、40代後半の淀殿は魅力的すぎたことでしょう。

「誰か!誰かある!」

「グヘヘ……いくら泣こうが喚こうが無駄じゃ。そなたに味方する者など、この城内に一人もおらぬ。何ならただちにそなたを捕え、徳川様に引き渡してもよいのだぞ……」

「くっ、殺せ!」

「そうはいかん。せっかく手に入れた美女を、みすみす手放してなるものか……」

とまぁそんな具合に、淀殿をあれやこれやと楽しんだ越中守はすっかり満足したのですが、辱しめに耐えられなかった淀殿は、利根川の流れに身を投げ、命を絶ってしまったのでした。

終わりに

かくして、せっかく大坂城から脱出できたにも関わらず、より悲劇的な末路をたどったとされる淀殿生存説ですが、彼女の墓は秋元家の菩提寺である元景寺(げんけいじ。現:群馬県前橋市)にあります。

また、淀殿が脱出の際に乗ってきたという駕籠の引き戸も同寺に残されており、金銀の糸を用いた内張りには、豊臣と実家・浅井(あざい)両家の紋が入っているそうです。

ちなみに、このエピソードだけだと単なるスケベ爺ぃと思われてしまいそうですが、秋元長朝は利根川から水を引いて領内の収穫量を大きく増やし、民の暮らしを豊かにした名君として地元で慕われています。

その後、元和8年(1622年)に嫡男の秋元泰朝(やすとも)に家督を譲って隠居、寛永5年(1628年)8月29日に83歳で世を去ったのですが、あの世で淀殿から復讐を受けたのでしょうか。

※参考文献:

  • 桑田忠親『桃山時代の女性』吉川弘文館、1996年1月
  • 「歴史の真相」研究会『おもしろ日本史大全』宝島社、2021年10月
 

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