【豊臣兄弟!】3歳で散った儚い命…茶々(井上和)と秀吉の“初めての子” 鶴松、溺愛の果てに訪れた絶望:2ページ目
天下一統より大事な我が子?
茶々と鶴松は天正18年(1590年)の年明けを大坂城で迎え、2月13日には京都の聚楽第(じゅらくだい)へ移りました。
やがて秀吉が小田原征伐(対 北条氏政・北条氏直)で関東へ出征すると、鶴松は大坂城へ入ります。
まだ2歳の幼児であっても、秀吉の後継者として本拠地を守る体裁をとったのでしょう。
秀吉が凱旋すると静養のため淀城へ移りますが、あまり頻繁な移動が幼体に堪えたのか、7月27日ごろから病床に伏せてしまいます。
『多聞院日記』によると奈良の興福寺に供物が贈られ、春日大社で病気平癒の祈祷が行われました。
何をするにも大規模(大げさ?)かつ親バカな秀吉ですから、恐らく興福寺だけでなく、他の寺社でも同様のことを行っていたのでしょう。
そのお陰もあってか、鶴松の病状は全快しました。秀吉としては、もし我が子に万一のことがあったら、と気が気でなかったことでしょう。
秀吉の親バカぶりは、天正18年(1590年)11月7日に李氏朝鮮からの使節を迎えた時にも発揮されました。
朝鮮使節の黄允吉(こう いんきつ)・金誠一(きん せいいつ)らと謁見した際、秀吉はいきなり中座したと思ったら、鶴松を抱きながら戻ってきたのです。
奥でぐずったから気になったのか、 あるいは使節らに見せびらかしたかったのかもしれません。
秀吉が嬉しそうに鶴松を抱いていると、鶴松はお漏らししてしまいました。大抵の父親なら機嫌を損ねる(というより、そもそも仕事の場に子供を連れ込まない)ものですが、秀吉はかえって上機嫌。大笑いして使節を憤慨させてしまいます。
令和21世紀の現代だと、時おり可愛いペットがWeb会議を邪魔するエピソードが微笑ましく報道されることがあるものの、当時の外交情勢は緊迫したものでした。
鶴松のお漏らしが日李両国の緊張を緩和させるどころか、ますます硬化させてしまったとしたら、鶴松が日本史に与えた影響は小さくないと言えるでしょう。
そんなこともありましたが、その後は秀吉も多忙のため、なかなか鶴松と会うことができませんでした。秀吉は何度も書状を出して病弱な鶴松を気遣っていたそうです。
こうして天正18年(1590年)は暮れていきました。秀吉にとっては天下一統を果たした重要な一年でしたが、鶴松を思えば天下どころではなかったのかもしれませんね。
