『風、薫る』の舞台にいたもう一人のヒロイン――幕末のジャンヌ・ダルク、新島八重がみせた銃から看護への転身:2ページ目
夫・新島襄が亡くなったあと日本赤十字社の正社員に
八重は明治4年(1871)、兄・覚馬を頼って京都へ行きました。
そして、教育者でクリスチャンの新島襄と出会い、明治9年(1876 )に再婚。
欧米のレディーファートが身に付いていた襄と男勝りの八重は仲のいい夫婦でしたが、夫よりも先に車に降りる八重の姿を見て、「悪妻」などと陰口をいう人もいたそうです。
男尊女卑の風潮が強い明治時代、男性のレディーファースト仕草を腹立たしく思う人もいたのでしょう。けれども、夫の襄はそんな時代に堂々と振る舞う妻を尊敬し「ハンサムウーマン」と呼んでいたと伝わります。
ところが、明治23年(1890)1月、最愛の新島襄は病のため急逝。
八重は「何か社会に貢献できることは」と考えて、同年4月26日、日本赤十字社の正社員になり“看護”の道を歩むことになりました。
戦いを経験し、傷付いた人々を数多くその目で見てきた経験も影響したのかもしれません。
そして、明治27年(1894)7月25日から日清戦争が始まりました。
八重は「日本赤十字社篤志看護婦人会」京都市会の看護取締として、同年の11月ごろから翌年の春頃まで、40人前後の看護婦を率いて広島で4ヶ月の救護活動にあたったそうです。
ただし当時の八重は、正規の看護婦の資格を有していません。そのため副取締に高木ハルと山室サタが任命されています。高木ハルは看護婦の資格を有していたので、実質的な看護業務は彼女主導で行われたようです。(同志社女子大学「篤志看護婦としての八重」)
広島陸軍予備病院の第三分院で看護を担当
新島八重が担当したのは、広島陸軍予備病院の第三分院。そこは戦争の負傷兵ばかりではなく、伝染病専用の隔離病棟も含まれていたのでした。(同志社女子大学「篤志看護婦としての八重」)
明治28年、厚生労働省「広島検疫病所」の記録によると、広島でコレラが流行っていたところに、日清戦争の終結で中国から帰国した将兵などにより、さらに感染が伝播したそうです。
そのため、内地と戦地を往復する船に乗った人・馬・物資に対して検疫を行なったことが、今の検疫法の先駆け的存在となったそうです。
看護婦諸姉が三十時間の長き労働を終えて帰り、僅かに制服を脱して余力を養はるるところは実に合宿所の一室中なり。(「日本の黄鶯嬢」女学雑誌407)(同志社女子大学「篤志看護婦としての八重」)
多くの患者がいる陸軍病院で30時間も看護の仕事をしつつ、同じ環境に寝泊まりして生活を続けるのは、相当困難を極めたのではないでしょうか。
実際に、過酷な労働環境で亡くなった篤志看護婦が4名いたそうです。
「風、薫る」のドラマ内で、大山捨松が軍人たちに言った「昼夜の別なく患者のために手を動かし、額に汗する看護婦の名誉も尊重してください」の言葉が思い出されます。
八重は、疲弊する看護婦たちを励ましつつ思いやり、ときには彼女たちの看護を邪魔する不届者は叱り飛ばし精力的に活躍したのかな……など、ふと日赤看護婦のユニフォームに身を包み、忙しそうに動き回る姿が目に浮かんだのでした。

