手洗いをしっかりしよう!Japaaan

『逃げ上手の若君』天皇暗殺を企てた公卿・西園寺公宗の悲劇―実弟の密告、妻の目の前で訪れた最期【後編】

『逃げ上手の若君』天皇暗殺を企てた公卿・西園寺公宗の悲劇―実弟の密告、妻の目の前で訪れた最期【後編】:2ページ目

後醍醐天皇暗殺計画?持明院と大覚寺統の統一?公宗が選んだ結末は…

政治的地位を回復するため、公宗は建武政権の転覆を計画していきます。

建武元(1334)年、公宗は北条泰家を屋敷に匿いました。泰家は北条高時の弟で、北条得宗家の血を引く人物です。

鎌倉幕府滅亡後、泰家は追われる身の上となっていました。その泰家と旧知であった公宗は、ともに建武政権を倒す方策を練っていきます。

公宗と泰家が計画していたのは、後醍醐天皇の暗殺計画でした。

計画では、後醍醐天皇を西園寺家の山荘(のちの金閣寺こと鹿苑寺)に招いて、そこで亡き者にするというものです。

公宗は日野資名(公宗の妻・日野名子の父)、義弟・日野氏光らにも計画を相談。このうち日野資名は、光厳法皇(公宗の従兄弟)の乳人という立場でした。

計画成功後には、公宗は後伏見法皇(持明院統出身。珣子内親王の父)を擁立しての新帝即位まで考えていたと言います。

実際、当時の建武政権においては内外から不満が蓄積しており、十分勝算があると踏んでいたようです。

しかし公宗はまだ計画に踏み切りません。

当時、叔母・珣子内親王が妊娠。生まれて来るのが皇子であれば、持明院統と大覚寺統、そして西園寺家の血を引く将来の天皇候補者となります。

建武2(1335)年3月、珣子内親王は皇女を出産。ある意味、日本の歴史が定まった瞬間でもありました。

同年4月、公宗は兵部卿(軍事防衛の長官)に叙任。軍権を預かる立場となりました。

公宗は後醍醐天皇とあまり良い関係ではないものの、しっかりと配慮されていたことがわかります。

しばらく練っていた計画ですが、こういう事情もあってか、実行に移せずになっていました。

3ページ目 弟の密告により暗殺計画が露見!公宗を待ち受ける壮絶な結末とは…

 

RELATED 関連する記事