『逃げ上手の若君』時行よりも逃げ上手!叔父・北条泰家が魅せた生存への執着と衝撃の結末【後編】:2ページ目
北条泰家ここにあり!ついに果たした念願の鎌倉入りの真実とは?
鎌倉奪還後、足利尊氏に建武政権から帰還命令が発出。しかし尊氏はこれを無視したため、京の建武政権との対立が深まっていきました。
尊氏を危険視した後醍醐天皇は新田義貞に追討を命令。逆に尊氏は義貞を破り、建武3(1336)年1月に京の都へ進出します。
このとき、奥州から陸奥鎮守府将軍・北畠顕家が5万の兵を率いて西上。尊氏は北畠軍に大敗を喫して九州へと落ちて行くこととなりました。
そしてこの間、泰家は虎視眈々と牙を研いでいたようです。
建武3(1336)年2月、信濃麻績御厨で泰家が挙兵。『市河文書』には「先代高時一族大夫四郎」と書かれており、この「大夫四郎」こそが、官職や通称などから泰家のことだと推定されます。
泰家軍には、丹波右近大夫(時継という人物)や凶徒とされる深志介知光らが参加。仲間を集めた上での挙兵だったと考えられます。
2月15日、泰家軍は麻績や十日市場付近で村上信貞の軍と衝突。信濃国守護・小笠原貞宗の軍勢とも戦うなど戦線は広がっていました。
泰家軍は信濃国から関東へと進出。やがて泰家の故郷である鎌倉へと進軍していきます。
このとき、鎌倉は足利義詮(尊氏の嫡男。のちの室町幕府2代将軍)が統治。斯波家長が補佐する形で関東を足利方の支配統治に置いていました。
同年3月、鎌倉周辺でも「先代合戦」と呼ばれる北条氏系勢力による戦闘が勃発。「先代」とは「北条高時」のことを指しており、それに近しい泰家らによる合戦と見ることができます。
つまり泰家は2月に放棄して3月には鎌倉まで進出。時行に続く形で再び北条による鎌倉入りを果たした可能性があるのです。
しかし斯波家長や相馬氏の軍勢に阻まれ、最終的に泰家軍は敗北したと考えられます(歴史資料で確認できる泰家の足跡は、同年2月までの戦いです。ここから泰家の確実な消息は途絶えています)。
ある意味、時行よりも逃げ上手の泰家でしたが、最後の最後で足利方と正面から戦い、そして歴史の渦の中へと消えていきました。
泰家は戦うべき時まで生き延び、戦うべき時に戦い、そして消えていった。泰家の生き様からは、武士というより1人の人間としての姿が浮かび上がってきます。
※逃げ若 関連記事:
『逃げ上手の若君』わずか16歳で公卿へ!西園寺公宗の栄光と、鎌倉幕府滅亡が狂わせた生涯【前編】
『逃げ上手の若君』時行のライバルで共闘者?足利尊氏との戦いに全てを捧げた諏訪頼継の生涯【前編】
※参考文献・参考サイト
- 鈴木由美『中先代の乱―北条時行、鎌倉幕府再興の夢』 中央公論 2021年
- 北条氏研究会 『北条氏系譜人名辞典』 新人物往来社 2001年
- 東京大学SHIPS Image Viewer
- 「市河経助軍忠状」長野県立歴史館HP

