【豊臣兄弟!】秀長は逃げない!史実が明かす、賤ヶ岳の勝敗を分けた「守りの名将」の真骨頂:4ページ目
秀長はなぜ「逃げない」のか
秀長が陣地防衛において、しっかりとした戦術を持っていたこととともに、もう一つ、秀長が武人として優れていた点を挙げたいと思います。
それは武将として、なによりも大切なこと。つまり「簡単には逃げない」ということでした。
正直なところ、秀長がいつ頃から実戦で活躍したのかは定かではありません。ただし、1570年(元亀元年)の金ヶ崎の戦いでは、信長本隊の退却を助けるため殿軍を務めた秀吉らの撤退戦を最後方で支えたとする見方もあります。
平井山の戦いもさることながら、田上山砦での防衛戦でも、秀吉の美濃大返しまで秀長勢はよく守り抜きました。
戦国時代はいったん逃げ始めると、まるで雪崩のように軍勢が崩れていくことがあります。その理由の一つは、戦国大名の軍団が、現代のような一枚岩の組織ではなかったことです。
たとえ戦国大名が100万石の所領を有していたとしても、そのすべてを大名が直接支配しているわけではありません。家臣たちに所領を与え、それぞれが兵を率いて主君に従うという構造のため、直轄領はそれほど多くはなかったのです。
しかも、領土拡大にともなって加わった外様や新参の家臣も多く、一度軍勢が崩れ始めると、離反や逃亡が連鎖することもありました。
一度ほころびが生じるやいなや、あれほどの栄華を誇った朝倉家も浅井家も武田家も、そして柴田勝家さえも、短期間のうちに滅亡へ追い込まれてしまいました。
それが戦国大名と、その軍団構造が抱えていた弱点の一つだったのです。
豊臣秀長というと、秀吉が天下人となった後、豊臣家を支える宰相として外交や所領統治の分野で活躍した姿に目が行きがちです。
しかし秀長は、「逃げない」という戦国武将にとって最も重要な資質を備えた武人でもありました。
秀吉はこの秀長の能力を認め、自分の名代として大軍の総大将を命じたり、自らの留守を一任したりしています。
「秀長は逃げない」。
強敵を前にしてもしっかり陣を守り、味方の崩壊を防ぎ、最後まで戦線を維持する。やはり秀長は戦国時代になくてはならない、文武両道に卓越した人物だったと言ってよいでしょう。
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※参考文献
磯田道史著 『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』文春新書




