【豊臣兄弟!】秀長は逃げない!史実が明かす、賤ヶ岳の勝敗を分けた「守りの名将」の真骨頂:3ページ目
秀長が得意とした「守りの戦い」
田上山砦で行った秀長の陣地防衛戦は、以前から実践していた戦い方でもありました。
それは、賤ヶ岳の戦いから遡ること5年、1578年(天正6年)10月の三木合戦における平井山の戦いでのことです。
秀吉は三木城に立て籠もる別所長治軍の兵糧を絶つため、城の周囲に付城を築きました。兵糧が尽きてきた別所軍は事態を打開するため、秀長が守る平井山に攻め寄せます。
しかし秀長は陣城の守りを固め、砦内から鉄砲や弓を猛射したため、別所勢は長治の弟・治定をはじめ、多くの将兵が討死してしまいました。
この秀長の戦術をわかりやすく箇条書きにすると、以下のようになります。
① 空堀と土塁、柵をめぐらせた堅固な砦を築く。
② その内側から鉄砲・弓などの飛び道具で敵を寄せ付けず、守り抜く。
③ 寄せ手が消耗したところを見計らって、反撃に転じる。
このような陣地戦は、その後の羽柴軍にとって重要な戦い方の一つになっていったと考えられます。
