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【豊臣兄弟!】“情けない姿”に騙されるな!知略の名将・桑山重晴の「偽りの降伏」が秀吉を救っていた

【豊臣兄弟!】“情けない姿”に騙されるな!知略の名将・桑山重晴の「偽りの降伏」が秀吉を救っていた:3ページ目

豊臣政権で活躍

その後も重晴は小一郎の家臣として活躍し、天正13年(1585年)の紀州征伐では自ら敵の首級を上げて感状を受けています。

また小一郎が大和一国を与えられると、重晴は紀伊和歌山城主に栄転し、二万石を加増されました。

やがて天正19年(1591年)に小一郎が世を去ると、その婿養子であった羽柴秀保(ひでやす。姉ともの三男で小一郎の甥)を補佐します。

その秀保も文禄4年(1595年)に世を去ると、大和大納言家(小一郎の一族)は断絶したため、重晴は秀吉の直臣となりました。

同年7月のいわゆる「秀次事件」では、秀吉の警護を務めた功績で一万石を加増され、合計四万石を領することになります。

このころに剃髪・出家して治部卿法印(じぶのきょうほういん)、また果法院宗栄(かほういん そうえい)と号しました。

慶長元年(1596年)5月11日になると重晴は隠居して、家督と修理大夫の官職を嫡孫の桑山一晴(かずはる)に譲ります。嫡男の桑山一重(かずしげ。一晴の父)は既に先立っていました。

隠居後は秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)として近侍し、慶長3年(1598年)に秀吉が世を去ると、遺産として黄金15枚を拝領します。

4ページ目 徳川政権下でも生き延びる

 

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