【豊臣兄弟!】“情けない姿”に騙されるな!知略の名将・桑山重晴の「偽りの降伏」が秀吉を救っていた:2ページ目
賎ヶ岳の合戦で知略を発揮
天正11年(1583年)に賤ヶ岳の合戦が勃発すると、重晴は激戦が予想される賤ヶ岳砦の守備を任されました。
間もなく佐久間盛政(遠藤雄弥)率いる柴田勢の精鋭が襲来すると、大岩山砦を死守していた中川清秀(すがおゆうじ)は討たれ、岩崎山砦を守備していた高山右近(市川知宏)も善戦むなしく敗走しています。
※劇中では清秀が寝返り、右近もろくに戦わずして逃走したと言われますが、実際は異なりました。最期まで清秀の遺勲も、最善を尽くした右近の武勲も、秀吉から高く評価されています。
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そんな中、重晴は真っ向から敵襲を食い止めようとはせず、あっさり寝返るような素振りを見せました。あくまでも「素振り」です。
これにすっかり慢心した佐久間盛政は油断し、攻撃の手を止めますが、いつまで待っても砦を明け渡そうとしません。
「もしや、謀られたか!」
重晴の計略を察した盛政は、さぞ激怒したことでしょう。しかしもう夜なので無理攻めはせず、明朝一番に攻め立ててやることにしました。
もちろん重晴も敵の怒りは重々承知。時間を稼ぐだけ稼いだタイミングで、兵をまとめて、さっさと賎ヶ岳砦を放棄したのです。
この時間稼ぎによって秀吉の「美濃大返し」が間に合い、浮き足立った盛政の軍勢に痛打を加えることが出来ました。
重晴は丹羽長秀の部隊と合流し、盛政らを攻め立てます。孤立無援の賎ヶ岳砦で無理に抗戦しなかったことで兵力を温存し、ベストコンディションで決戦に臨めたのは、重晴の知略と言えるでしょう。
平時に仲間を欺くのは非道ですが、戦場で敵を欺くのは知恵と剛胆のなせる業。重晴はまさに知勇兼備の名将でした。
戦後の論功行賞で、重晴は丹羽秀重(にわ ひでしげ)や長束正家(なつか まさいえ)らと共に知行を加増されています。
また小一郎が本拠地をそれまでの竹田城から姫路城へ移したのにともない、重晴は竹田城主を任されました。
小一郎には古参の家臣がいる中で、特に重晴が抜擢されたのは、周囲も重晴の力量を認めていたのでしょう。
