吉田松陰の妹を「2人娶った男」――幕末、陰で長州藩を動かした知られざる実務家・楫取素彦【前編】:3ページ目
妻・寿の死と、文との再婚
楫取の人生には、明治になってからも松陰の家族が深く関わってきます。最初の妻、寿が亡くなったのは1881(明治14)年。その2年後、1883(明治16)年に、楫取は寿の妹・文と再婚します。文は吉田松陰の妹であり、久坂玄瑞の妻でもありました。
久坂は1864年の禁門の変で亡くなっています。その後、文は一人で暮らしていました。そこへ、姉の夫だった楫取との縁が生まれます。姉の夫と、その妹。現代の感覚からすると、かなり驚く話です。けれど、当時の人間関係を考えると、家同士のつながりや、残された家族の生活という問題も見えてきます。
楫取と文の結婚は、単なる「珍しい再婚話」として片づけられるものでもありません。文は後に美和、美和子と名を変え、楫取とともに明治の時代を生きていきました。松陰を中心に結ばれた人間関係は、幕末が終わっても消えませんでした。そして楫取自身も、人生の大きな転換点を迎えます。
長州を離れ、群馬へ
ここまでの楫取を見ると、「松陰の友人」「松陰の妹の夫」という印象が強いかもしれません。ところが、楫取の仕事を追っていくと、明治以降の人生はかなり違った顔を見せます。
明治維新によって、幕府も藩もなくなりました。これまで藩のために働いていた武士たちは、新しい国の仕組みの中で生きていかなければなりません。楫取もその一人でした。長州を離れ、向かった先は群馬です。
そこで楫取は県政に関わるだけでなく、群馬の産業や教育にも力を注いでいきます。当時の群馬にとって、特に重要だったのが養蚕と製糸でした。幕末には長州藩の政治の中で仕事をしていた楫取は、明治になると群馬の産業や教育をどうするかを考える立場になります。ここから先が、楫取素彦という人物のもう一つの顔です。
【後編】では、群馬県令となった楫取が、養蚕や製糸、そして教育にどう向き合ったのかを見ていきます。
参考文献
- 楫取素彦没後百年顕彰会編『男爵楫取素彦の生涯』(2012 毛利報公会)
- 中村紀雄著『楫取素彦 吉田松陰が夢をたくした男』(2014 書肆侃侃房)