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【豊臣兄弟!】三法師には弟が!キリシタンとなり豊臣家滅亡を見届けた織田信忠の次男・織田秀則の生涯

【豊臣兄弟!】三法師には弟が!キリシタンとなり豊臣家滅亡を見届けた織田信忠の次男・織田秀則の生涯:2ページ目

キリシタン「パウロ」となる

やがて思うところあったのか、秀則は慶長元年(1596年)ごろに洗礼を受けてキリシタンとなりました。洗礼名をパウロと言い、同時期に兄の秀信も洗礼を受けています。

宣教師ルイス・フロイス(フェルナンデス直行)は秀則に対して「素性を知らずに彼と少し話した場合、その品格によりドイツの貴族と判断してしまう」と評しました。

ドイツ貴族がいかなるものかは詳しくわかりませんが、恐らく秀則は気品と威厳を兼ね備えた人物だったのでしょう(ドイツに対するイメージ)。

ただしフロイスはキリスト教に入信するなど好意的な≒自分たちに都合のよい人物をベタ褒めする一方、棄教した人物をボロッカスにこき下ろす傾向が見られます。

そのため、いくらかのリップサービスが含まれている可能性は否定できません。

かくしてキリシタンとなった秀則ですが、完全に仏教と絶縁する原理主義者ではなく、慶長3年(1598年)に見性院(けんしょういん)を創建しました。

見性院は父・信忠が亡くなった京都妙心寺の塔頭であり、桂春院(けいしゅんいん)として今日まで現存しています。

関ヶ原では西軍に与する

慶長3年(1598年)に秀吉が世を去り、豊臣政権が東西に二分されると、秀則は兄の秀信と共に石田三成(松本怜生)率いる西軍に与しました。

そして慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦が始まると、兄の居城である岐阜城に立て籠もり、東軍を迎え撃ちます。

『江源武鑑(こうげんぶかん)』によると秀則(織田左衛門)は織田兵部(ひょうぶ)や津田藤右衛門(とうえもん)らと共に武勲を立てたそうです。

しかき本書は偽作の可能性が指摘されており、また他の史料に記録がないため、確かなことかはわかりません。

ともあれ奮戦むなしく徳川家康(松下洸平)率いる東軍に敗れ去った秀信と秀則兄弟は、刃向かった罰として改易(所領を全没収)されてしまいました。

行く先もないので秀則は豊臣家を頼って大坂へ舞い戻ます。旧主の血筋ということで、いくばくかの俸禄に与っていたのでしょう。

3ページ目 豊臣家の滅亡を見届けた織田秀則

 

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