朝ドラ『風、薫る』中村倫也演じる柳生藤次のモデルは誰?明治時代「衛生」に携わった伝説の医系技官の史実:2ページ目
西洋の“衛生”を取り入れるために『内務省衛生局』が設置
NHKの「風、薫る」の公式サイトでは「柳生藤次」の人物紹介として
りんと直美が新潟で出会う患者。実は、内務省衛生局の役人。新潟でりんや直美たちトレインドナースの活躍をじかに目にした柳生は、看護婦の重要性を強く認識する。
とあります。
実際、柳生藤次のような内務省衛生局の役人たちは明治時代にもいました。
“防疫”どころか、病や怪我を“看護”する……という認識すらなかった日本。
明治維新後、西洋からさまざまな文化や技術などを積極的に取り入れていた明治政府では、“衛生”を意識するようになりました。
そして、明治8年(1875)には、“衛生”を専門に扱う行政機関『内務省衛生局』を設置していたのです。
そこの初代局長を務め、まず日本の衛生行政の基礎を作り上げたのが、医師・薬剤師などであった長與專齋(ながよせんさい)という人物です。
そして、その長與の推薦を受けて、明治25年(1892)に局長を務めたのが、医師で官僚だった後藤新平でした。
この二人が柳生藤次というキャラクターのイメージソースになったのでは?ともいわれています。
“衛生” という言葉を考案した・長與專齋
長與專齋は、天保9年(1838)に肥前国大村藩(現在の長崎県)に代々勤めていた漢方医の子としていまれました。
安政元年(1854)、16歳で緒方洪庵(※)の蘭学の私塾『適塾』に入門し、その後福沢諭吉の後任として塾頭にもなっている人物です。
万延元年(1860)、22歳の頃に長崎に行き、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を学びました。その後、ポンペの後任・マンスフェルトに医学教育近代化の必要性を諭されたそうです。
明治元年(1868)、長崎精得館(現在の長崎大学医学部)の医師頭取(病院長)に就任。マンスフェルトと共に、「自然科学を教える予科」と「医学を教える本科」に分ける学制改革を行います。
明治4年(1871)には、岩倉使節団に随行して渡欧、医療制度や医学の実地調査などを行い、2年後に帰国してからは、文部省医務局長となり、明治8年(1875)に内務省衛生局の初代局長となりました。
日本にはこの当時『衛生』という言葉がなかったそう。Hygieneを訳して長與が考案したとされています。
その後、明治25年(1892)に衛生行政の後継者として後藤新平を衛生局長に迎えました。
長與は、司薬場の建設、医制の制定、防疫・検疫制度の導入など日本の衛生行政の基礎を築き上げ、大日本私立衛生会を興して会頭に就任、種痘の普及にも貢献したそうです。
※緒方洪庵:江戸時代後期の蘭学者
