「大うつけ」はポーズ?若き織田信長が京都で目撃した将軍の権威と「三好長慶」の実力:2ページ目
家中の争い
信長の周囲では、家中の争いも進んでいました。父の織田信秀は一五四八年、美濃の斎藤道三との対立を解消し、その際に道三の娘である濃姫を信長へ嫁がせています。
斎藤道三は油売りの商人から美濃の実権をにぎった人物でした。そんな道三が信長をどう見ていたのかは、はっきりしていません。
一五五二年には信秀が亡くなりました。その後、一五五七年に信長は、尾張の主権をねらって動いていた弟の信勝を殺害しています。
さらに一五五八年には、尾張上四郡の守護代だった織田信賢を軍事的に破りました。信長はこうして、尾張で勢力を広げるための大きな課題を一つずつ処理していったのです。
そして一五五九年二月、信長は京都へ向かいました。目的は、復活した十三代将軍・足利義輝との謁見です。
信長は義輝との面会を終えると、京都に四、五日ほど滞在して尾張へ戻りました。滞在期間だけを見ると、かなり短い上洛だったと言えます。
しかし、この短い京都滞在で信長が目にした政治の仕組みは重要でした。そこには、将軍の権威と実力者の政治力という二つの現実があったのです。
