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将軍がいなくても京都は回る!?「将軍なき政治」を成立させた三好長慶の凄みと崩壊の理由

将軍がいなくても京都は回る!?「将軍なき政治」を成立させた三好長慶の凄みと崩壊の理由:3ページ目

長慶の死

ところが、ここから政権の歯車が狂い始めます。1564年、末弟の子である義継を養子に迎えた直後、長慶は43歳で病死しました。

長慶の死後に存在感を強めたのが、家老だった松永久秀です。長慶を支えていた久秀が大きな力を持つようになり、三好政権内部の関係が変わっていきました。

これを好機と見たのが足利義輝で、幕府の実権を取り戻そうと画策しましたが計画が知られてしまい、1565年に三好義継・三好三人衆・松永久通らが京都で義輝を襲撃し、義輝は自害しました。

さらに彼らは、興福寺で覚慶と名乗っていた義輝の弟も狙います。

覚慶は近江へ逃れましたが、この時に覚慶を助けたのは意外にも松永久秀でした。

ここで大きな変化が起きていました。三好政権を支えていた松永久秀が、政権内部の別勢力を支える側へ動いたのです。

三好義継と三好三人衆は久秀と対立し、1565年11月には阿波の足利義栄を14代将軍に立てました。将軍の権威を利用して三好政権を維持しようとしたのでしょう。

一方、覚慶は還俗して足利義秋、さらに義昭と名を変えました。義昭は義栄を倒し、自ら将軍として京都へ入ることを目指します。

こうして三好政権は、足利義栄を擁する三好一族と、足利義昭を支持する松永久秀らに分裂しました。

長慶の死からわずか二年ほどで、政権内部の対立が表面化したのです。

そして義昭は諸大名に、自分を将軍として京都へ迎え入れて三好政権を倒すよう求めました。その呼びかけに応じた人物の一人が織田信長です。

三好長慶は、将軍がいなくても京都で政治を動かせることを示しました。しかしそれは、彼個人の実力とカリスマ性によって支えられていたのです。

よって長慶が死ぬと、内部の権力争いが一気に表へ出てきたのでした。

将軍なしの政治は可能だったが、その政治を安定させる仕組みは十分に育っていなかったのでしょう。三好長慶の政権は、将軍を必要としない政治の可能性を示す一方、その政治を個人の力に頼る危うさも残したのでした。

参考資料:出口治明『10人の英傑が「この国」を変えた 大転換の日本史』2025年、PHP研究所
画像:Wikipedia

 

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