『豊臣兄弟!』豊臣秀長は実は「百万石大名」だった!徳川家康と並んだ秀吉の弟、忘れられた名将の軌跡:2ページ目
聚楽第で示された順位
天正十三年当時、百万石以上の領地を持つ大名は全国で数名のみでした。いわば、彼は当時の長者番付(若い人は知らないと思いますが)の上位ランカーだったのです。
秀吉、秀長、家康、毛利輝元がその代表であり、島津義久や上杉景勝を含める説もありますが、いずれにせよ希少な階層です。
彼はもともと秀吉の側近集団の一人として出発しましたが、やがて家康と同じ階層に位置づけられるほどの実力者となったわけです。
その立場を示す材料として、天正十六年の後陽成天皇の聚楽第行幸があります。
聚楽第は秀吉が京都に築いた政庁兼邸宅で、後陽成天皇はここを訪れたのです。天皇が臣下の邸宅を訪れるのは極めて異例のことでした。
行幸は四月十四日から五日間続き、秀吉はここで有力大名たちに誓紙への血判を求めます。
誓紙には関白の命令に従う旨が記されており、要するに「俺の命令に従え」という内容でした。
血判は官位の低い者から押され、前田利家、宇喜多秀家、秀次、秀長、家康、信雄の順となりました。この誓紙上では、秀長は上から三番目の官位だったことになります。
しかし注意すべきは、誓紙上もっとも上位であるはずの織田信雄(信長の次男)は、実際には実力は高くなかったという点です。彼の優れた点はその血筋だけでした。
よって、当時は徳川家康が、最も力を持つ大名とみなされていたのです。そうなると誓紙上は秀長もワンランク繰り上がることになり、彼は全国でもナンバー2の実力だったことになります。当時の彼は、完全に政権の中核を担う人物として扱われていたのです。
