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【豊臣兄弟!】豊臣秀次(山田涼介)粛清の真相は?切腹へ追い込まれた聚楽第改修に潜む“秀吉への反逆”

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豊臣家に生まれた二つの権力の対立

ただそれでも、1594年(文禄3年)の秀吉と秀次の関係は平穏に流れます。しかし裏では、秀次に対しての暗雲が徐々に立ち込めていたと考えられるのです。

それは絶対的権力者である豊臣家に、二人の後継者ができたことによる悲劇でした。まさに、両雄並び立たずという状況が否応なしに起こってしまったのです。

つまり、秀吉と秀頼を中心とする勢力。言い換えれば、秀頼の誕生によって淀殿とその側近の勢力が急激に台頭したこと。この勢力に対して、現関白である秀次の統治機構を担う勢力の対立が起き、それが表面化していくことで、やがて秀吉が秀次排除の意思へと傾いていったとも考えられるのです。

そして、1595年(文禄4年)6月、秀次に謀反の疑いが持ちあがり、秀次は高野山で切腹、その一族と側近たちはことごとく粛清されるいう憂き目に遭ったのでした。

聚楽第の大改修が意味するものとは

では、なぜ秀次は突然謀反の罪を着せられ、滅亡に追い込まれたのでしょうか。

その理由は文禄の役の最中、九州の秀吉にもたらされた「関白秀次様に不穏な動きあり」が発端であった可能性があるのです。

城郭考古学という分野で著名な千田嘉博氏は、この不穏な動きの正体を、秀吉が築き秀次が居城としていた京都聚楽第にあると指摘しています。

しかし、京都大学防災研究所の振動波を用いたレーダー探査により、地中の痕跡から天守や堀の位置など、その全体像がかなりの精度で復元可能となったのです。

この調査で分かったことは、聚楽第の範囲はこれまで知られていたよりも1.6倍の広さになるということ。また、本丸の北西角の推定地からは、天守閣とみられる固い地盤の高まりが検出され、城への出入り口である「虎口」とみられる堀の切れ目も三カ所で見つかりました。

これだけでも貴重な発見ですが、この調査による最大の成果は、本丸東堀の約70メートル東には、幅40メートル、深さ8メートル以上の人工の窪み、すなわち大規模な外堀が見つかったことでした。またこの外堀は、東側だけでなく北側や西側でも確認されているのです。

そして最も注目を集めたのは、こうした外堀は、聚楽第を囲んでいた周囲の大名屋敷を取り壊してまで、広げようとしていた意図が認められたことでした。

この外堀拡張がいつ行われたのかは、調査からは断定できていません。しかし千田氏は、秀次が聚楽第の大改造に乗り出したのは、秀吉が朝鮮出兵のため、肥前名護屋城にいる期間だったと推測しています。

ではなぜ、秀次は聚楽第に外堀を設けたのでしょうか。実は聚楽第は、本丸・二の丸・馬出しを備えながらも、広大な外堀を持たず、純粋な軍事拠点とは言いがたい構造でした。

それを秀次が新たに外堀を造ることで、聚楽第を「単なる政庁」から「一大軍事拠点」へと変えようとしたと考えられるのです。

3ページ目 聚楽第の遺構が語る秀次事件の真相

 

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