朝ドラ『風、薫る』でも描かれた「明治ナース誕生」史実では何があった?看病を“専門職”へ変えた女性たち:2ページ目
「看病」から専門職へ――近代看護教育の始まり
明治維新後、日本政府は欧米を手本として、軍隊、学校、警察、病院などの近代的な制度を整えていきました。
医学の分野でも、西洋式の診察や手術、薬学、解剖学などが導入されます。しかし、医師を支えながら患者の療養生活を整える看護については、教育制度の整備が遅れていました。
当時の病院では、「看病婦」などと呼ばれる女性たちが患者の世話をしていました。ただし、その多くは正式な教育を受けておらず、経験を頼りに働いていました。
見知らぬ男性患者の身体に触れたり、着替えや排泄を手伝ったりする仕事には、当時の男女観から抵抗もありました。
看護は必要な仕事でありながら、社会的に高く評価されていたとは言いにくかったのです。
こうした状況の中で近代的な看護婦教育を始めた人物の一人が、医師の高木兼寛です。
高木はイギリスのセント・トーマス病院医学校に留学し、フローレンス・ナイチンゲールの思想を受け継ぐ看護教育に触れました。
帰国後の明治14(1881)年、高木は成医会講習所と有志共立東京病院を設立します。そして明治18(1885)年、有志共立東京病院に看護婦教育所を開設しました。
教育の指導者として招かれたのが、アメリカ人看護婦のメアリー・エリザベス・リードです。ここでは、西洋式の看護理論と病院での実習を組み合わせた、本格的な教育が行われました。
明治20(1887)年には、東京の桜井女学校付属看護婦養成所にも看護婦を育てる課程が設けられました。
ここに入学した第一期生の中に、大関和と鈴木雅、桜川里以、広瀬梅らがいたのです。
大関和は安政5(1858)年、下野国黒羽藩の家老職を務める家に生まれました。結婚生活を終えて東京へ戻った後、牧師の植村正久から看護婦になることを勧められます。
明治20(1887)年1月、大関は桜井女学校付属看護婦養成所に入所しました。同年3月には植村正久から洗礼を受けています。
養成所の教育は、当初から順調だったわけではありません。
日本語で書かれた看護の教科書はほとんどなく、看護教育の経験を持つ日本人教師もいませんでした。生徒でもあった峯尾えいが、英語の看護書を翻訳しながら授業を行うなど、手探りの状態で教育が始まりました。
その後、スコットランド出身の看護婦アグネス・ヴェッチが指導に加わります。ヴェッチは帝国大学医科大学第一医院で働きながら、養成所の授業や実習を担当しました。
生徒たちは、包帯の巻き方や患者の身体を清潔に保つ方法だけでなく、換気、食事、病室の環境、患者の観察などを学びました。
明治23(1890)年7月19日、大関和や鈴木雅らは看護婦養成所の課程を修了します。
修了後、大関と鈴木は、実習先だった帝国大学医科大学第一医院に採用されました。大関は外科、鈴木は内科の看護婦取締(現在の婦長に近い役割)を任されます。
専門教育を受けた看護婦がまだ少なかったため、新人でありながら指導的な立場を担うことになったのです。
同じころ、日本赤十字社でも看護婦養成が始まっていました。
明治19(1886)年、日本赤十字社は救護員を養成するために博愛社病院を設立。明治22(1889)年には「日本赤十字社看護婦養成規則」を制定し、翌明治23(1890)年から10人の看護婦生徒の養成を開始しました。
明治24(1891)年に濃尾地震が起こると、第一期生10人全員が救護班に加わりました。これが、日本赤十字社で養成された看護婦による最初の災害救護活動とされています。
当初の養成目的は戦時救護でした。しかし、濃尾地震での活動をきっかけとして、災害時の救護も看護婦の重要な役割に加えられていきました。
