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朝ドラ『風、薫る』でも描かれた「明治ナース誕生」史実では何があった?看病を“専門職”へ変えた女性たち

朝ドラ『風、薫る』でも描かれた「明治ナース誕生」史実では何があった?看病を“専門職”へ変えた女性たち:3ページ目

大関和と鈴木雅の活躍――社会へ広がった看護の力

病院で専門教育を受けた看護婦が働き始めても、看護を必要とするすべての人が病院へ入れるわけではありませんでした。

そこで鈴木雅が始めたのが、看護婦を患者の自宅へ派遣する事業です。

鈴木は安政4(1857)年、現在の静岡県に生まれました。陸軍少佐だった夫(鈴木良光)を病気で亡くし、十分な看護を受けさせられなかったことを悔やんだことが、看護婦を志すきっかけだったとされています。

鈴木は英語に通じ、養成所ではアグネス・ヴェッチの通訳も務めました。修了証書には、鈴木だけに「看護学を教えるにふさわしい」という趣旨の言葉が添えられていたと伝わります。

帝国大学医科大学第一医院を退職した鈴木は、明治24(1891)年、東京の本郷に「慈善看護婦会」を設立しました。

これは、病人のいる家庭へ看護婦を派遣する組織でした。日本で最初の個人経営による派出看護婦組織とされています。

当初、鈴木は貧しい人々に無償で看護を提供しようとしました。しかし、慈善事業だけでは運営を続けることが難しく、やがて料金を受け取る仕組みに改めています。

慈善看護婦会は後に「東京看護婦会」と改称されました。明治29(1896)年には「東京看護婦養成所」も設けられ、鈴木は看護婦を派遣するだけでなく、後進の教育にも取り組みました。

一方、大関和は明治23(1890)年に帝国大学医科大学第一医院を退職します。

病院で働いていた大関は、十分な休息を与えられずに働く看病婦たちの姿を見て、待遇改善を求める建議書を提出していました。

看護婦の献身だけに頼るのではなく、働く環境そのものを改善する必要があると考えていたのです。

翌明治24(1891)年、大関は新潟県高田にある黒川勝治知命堂病院で看護長となりました。

当時は、コレラ、赤痢、腸チフスなどの感染症がたびたび流行していました。大関は病室の換気、患者の身体や衣類の清潔、飲料水、食事、便所やごみ捨て場の管理などを重視します。

患者の世話だけでなく、病気が広がりにくい環境をつくることも看護婦の仕事だと考えたのです。

明治27(1894)年に日清戦争が始まると、日本赤十字社の看護婦による救護活動が新聞などで報じられました。看護婦を志す女性が増える一方、十分な教育を行わないまま看護婦を派遣する組織も現れます。

大関と鈴木は、看護婦の教育水準や業務を定める規則が必要だと考えました。内務省衛生局長の後藤新平に働きかけたとされますが、すぐに全国的な制度ができたわけではありません。

大関は、現場で働くだけでなく、看護の知識を広く伝える活動にも力を入れました。

明治40(1907)年、療養中に『実地看護法』を執筆。翌明治41(1908)年に刊行された同書には、患者への接し方や看護婦の心得、病室の衛生などがまとめられました。

明治42(1909)年には「大関看護婦会」を設立。同年、有力な看護婦会の連合組織として「大日本看護婦協会」も発足しました。

そして大正4(1915)年6月30日、内務省令第9号「看護婦規則」が公布されました。

この規則によって、看護婦の年齢や資格、試験などについて全国共通の基準が設けられます。地方ごとに異なっていた制度が、ようやく全国的に統一されることになったのです。

ただし、これによって看護婦の地位や待遇の問題が、すべて解決したわけではありません。

長時間労働や低い賃金、医師との身分差、女性の献身を当然とする社会の見方は、その後も長く残りました。

それでも、明治時代に始まった看護婦教育は、看護を女性の善意や経験だけに頼る仕事から、知識と技術を備えた専門職へと変えていきました。

ドラマに描かれる人物同士の会話や細かな出来事は、史実そのものではありません。しかし、大関ちかや鈴木雅が桜井女学校付属看護婦養成所で学び、病院や患者の家庭で働き、教育や制度づくりに関わったことは確認できます。

二人が切り開いた道は、病人を救うだけのものではありませんでした。

女性が専門知識を身につけ、自らの仕事を持ち、社会の制度を変えるための道でもあったのです。

「明治ナース誕生」とは、看病を善意だけに任せていた社会が、命を支える仕事を一つの専門職として認め始めた、静かな革命だったと言えるでしょう。

 

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