『豊臣兄弟!』鯉に毒は本物?武将たちはどこにいた?本能寺の変の生還者たち…第27回の気になる描写を考察:2ページ目
そのとき、あの人々はどこにいた?
公式サイトで、天正10年6月2日時点における各部将の所在地を示す図が紹介されていました。
織田信孝(結木滉星)と丹羽長秀(池田鉄洋)そして信澄は四国攻めの準備、秀吉は中国戦線、柴田勝家(山口馬木也)と前田利家(大東駿介)は北陸戦線にいます。
また徳川家康(松下洸平)は堺の街を観光中でした。
せっかくなので、織田家重臣または有力家臣でありながら、所在が割愛されてしまった武将たちの所在地も確認しておきましょう。
- 佐々成政(白洲迅)……柴田勝家らと北陸戦線
- 滝川一益(猪塚健太)……関東戦線・上野国(群馬県)
- 池田恒興(堀井新太)……中国戦線援軍・摂津国(兵庫県)
- 細川藤孝(亀田佳明)……丹後国(京都府)
- 筒井順慶(永沼伊久也)……大和国(奈良県)
果たして信長亡き後、彼らがどのような動きを見せるのか、各人の思惑がどのように描かれるのかが注目です。
安国寺恵瓊と黒田官兵衛の和睦交渉
劇中では黒田官兵衛(倉悠貴)から和睦の条件として備中・備後・美作・伯耆・出雲の5か国を提示、安国寺恵瓊(立川談春)がこれを渋る場面がありました。
実際には5か国割譲を毛利方から提示しており、さらに水攻めに苦しんでいた備中高松城の将兵を助命することを要請しています。
しかし秀吉はこれを拒否し、5か国割譲+城将・清水宗治の切腹を要求したため、交渉は一度決裂しました。
毛利方は宗治に対して降伏すべきことを伝えましたが、宗治は「自分の命で毛利家と城兵が助かるなら」と降伏を拒否して和睦するよう訴えます。
そんな中で本能寺の変が起こり、速やかな和睦が必要となった秀吉は、和睦条件を備中・美作・伯耆の3か国と宗治切腹に譲歩しました。

