【豊臣兄弟!】実は本能寺の変の“黒幕級”だった?明智光秀(要潤)の右腕・斎藤利三(内藤剛志)の生涯:3ページ目
「斎藤蔵助、今度謀反随一」いう記録が
天正10年(1582)、明智光秀は斎藤利三ら五人の側近を集めて、信長への謀反を打ち明けます。
最初は、断固として謀反に反対した利三でしたが、周囲が皆賛成したために同意します。
6月2日、信長のいる本能寺を約13,000人の明智軍が問い囲んで襲撃したときに、真っ先に突入したのが斎藤利三だったともいわれています。
その後、光秀は安土城に入り、朝廷に対して自分が天下を治める作戦を開始。このときに光秀と朝廷の仲介を務めた吉田兼見は、光秀から『斎藤蔵助、今度謀反随一』と聞いたという記録が、当時の公家の日記に残っているそうです。
この文は、「このたびの謀反の張本人は斎藤利三」と解釈する説と、「このたびの謀反でもっとも手柄をあげたのは斎藤利三」と解釈する説があり、真実は謎となっています。
ただ、利三が信長を嫌っていたと考えられる出来事もありました。
前述した、稲葉良通が信長に「光秀に家臣だった斎藤利三と那波直治を返すよう」と直訴したときのこと。
信長は那波は稲葉家に戻し、「利三は切腹を申しつける」という一方的な命令を下しました。さすがに、あまりの仕打ちに周囲がとりなし中止になったそうです。
長宗我部に対する手の平返し事件といい、切腹命令といい、理不尽な信長に怒り心頭になった利三が、光秀に謀反を働きかけたともいわれています。
