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【豊臣兄弟!】実は本能寺の変の“黒幕級”だった?明智光秀(要潤)の右腕・斎藤利三(内藤剛志)の生涯

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「できる武将」利三は筆頭家老として光秀を支える

400〜500年近く前の戦国時代は、好待遇を求めて主君を変えることは当たり前でした。より良い条件でスカウトの声がかかるほうが「できる人材」と評価されたことになるので、ステータスでもあったとか。

まるで現代の転職マーケットのようですが、斎藤利三はまさに「できる武将」として評判だったそうです。

当時、信長から丹波国の攻略を命じられていた光秀は、4年がかりでようやく制圧に成功します。利三は天正8年(1580)に丹波・黒井城の運営を任されました。

ところが、長い戦いの上に手に入れた黒井城は、城門も城壁もボロボロ状態で、周辺の田畑も荒れ果てていたので、周辺の民たちは新たなる支配者・利三を歓迎しませんでした。

そこで、明智軍が基地として使った白毫寺の僧たちに「人足役」(課される労働)を免除する政策を打ち出すなど、地元民と良好な関係を築き上げるために、さまざまな対策を行いました。

利三は、光秀の元で現地支配や軍事動員に関わる実務を任され、明智秀満と並ぶ明智氏の筆頭家老に。1万石を与えられて丹波黒井城主となり、氷上郡統治にあたりました。

手のひら返しの信長に光秀とともに謀反を起こす

本能寺の変、『四国説』とは、以下のような内容です。

天正8年、織田信長は大阪本願寺の戦いが完全に終わると、今まで認めていた「長宗我部元親の四国平定」を認めないと方針をひっくり返しました。

光秀を通じて「支配するのは土佐と阿波南半分で我慢するよう」に命じるも、元親は拒否します。

これに対して信長は、阿波三好家出身の三好康長に治めさせることにし、翌10年1月、元親に「土佐1国だけで我慢しろ」と光秀を通して伝えます。

突然の手のひら返しの信長のやり方に激怒した元親は、返事もしなかったとか。

長宗我部家の滅亡を恐れた光秀は元親を説得しますが、その最中に、信長は三男の織田信孝を総大将にして、元親征伐を兼ねた四国出兵を命じたのでした。

長年、元親と信長の取次をしてきた努力をむげにする信長のやり方に怒りを感じた光秀は、明智家の危機と捉え謀反を決意しました。

元親の妻は、光秀の重臣・斎藤利三の義理の妹だったとか。そんな縁があって、光秀は取次役を一手に引き受けたのですが、もちろん利三も関わっていたので、立場を失ったのは光秀同様でした。(『元親記』)

ただ、『石谷家文書』によると、天正10年(1582)5月21日付で、長宗我部家元親が、斎藤利三に宛てた書状が残っているとか。

それによると……

「一宮城、夷山城など阿波にある主要な城5つからは信長の命令通り退城するが、海部城など2つの城は土佐の玄関口にあたるので所有を認めて欲しい」

と、信長への取り次ぎを懇願しているそう。

元親は徹底的に信長と戦いたかったわけではなかったようです。

そのため、光秀と利三の謀反の動機は、「元親への手のひら返しへの復讐」とも考えづらく「立場を潰された復讐」ともいいづらく、見解はそれぞれの研究者によって異なります。

やはり、「信長の息子・信孝が元親征伐で大勝利を収めたら、明智家の面子は潰されたうえに存亡に関わる」ので、その前に謀反を起こした……のが一番自然なのではないかと言われているのですが。

3ページ目 「斎藤蔵助、今度謀反随一」いう記録が

 

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