【豊臣兄弟!】本能寺の変1年前、織田信長が京都で見せつけたド派手すぎる軍事パレード『京都御馬揃え』とは?:3ページ目
『京都御馬揃え』を行った理由は?
信長が『京都御馬揃え』を行った理由に関しては諸説あるようです。
▪️前述のように、織田の家臣たちの“わかやいだ姿”を京の民たちに見せつけたかった
▪️正親町天皇に織田軍団の威容をみせつけ、朝廷に対し何らかの圧力をかけたかった
など。
さらに、近年では「誠仁親王の生母・新大典侍が天正8年(1580)12月29日に亡くなり、世の中が停滞ムードになっているために朝廷が信長に依頼した」という説があります。
『信長公記』では
「天下(=畿内)において馬揃えを執り行い、聖王への御叡覧に備える」
と記されています。
「天下(=畿内)が治まりつつある状況で、正親町天皇と誠仁親王に馬揃えを奉仕の一環として叡覧に供した」ようです。
結果、「このようにおもしろい遊興を正親町天皇がご覧になり、喜びもひとしおで綸言を賜った」ともあり、正親町天皇が大喜びだったようです。
謀反人の息子・織田信澄をファミリーとして評価
さて『京都御馬揃え』の順列はどのようなものだったのでしょうか。『信長公記』によると……
▪️一番〜四番手は、丹羽秀長秀・摂州衆(高山重友、中川清秀、池田元助ら)・若州衆(粟屋勝久、武田元明ら)・明智光秀など。
▪️次に織田一門(織田家の血筋に連なる人々)で、筆頭はすでに家督を継いでいた長男・織田信忠の80騎と美濃衆と尾張衆、次いで、次男・織田信雄の30騎と伊勢衆、信長の弟・織田信包(のぶかね)の10騎、三男・織田信孝の10騎、一門衆の五番目は信長の甥・織田信澄の10騎が努めました。
注目は織田信澄。謀反人の織田信勝(信長の弟)の嫡男です。信長の甥とはいっても謀反人の子なのに助命され、柴田勝家のもとで育てられました。
【豊臣兄弟!】裏切りか不幸な濡れ衣か?信長の甥・織田信澄(緒形敦)「本能寺の変」で迎える悲劇的な最期
『京都御馬揃え』で五番手を務めるほど、若い頃から信長の信頼を得ていたそう。信長の趣味・相撲興行でも奉行を務めるなど活躍していたのですが……本能寺の変に巻き込まれ悲劇的な運命を迎えてしまいますが、またそれは別の話。
織田一門の後は、公家衆・旧幕臣衆・九番部隊・十番部隊・十一番部隊……と続きました。
ちなみに、この一大騎馬パレードは参加人数が多過ぎて書ききれないのですが、羽柴秀吉は戦況上の理由で中国地方から離れられず参加できませんでした。
秀吉は悔しがり、長谷川秀一に宛てた書状で、「せめて当日の内容や雰囲気だけでも知りたい」と書いていたそうです。
派手好きな秀吉、さぞかし参加したかったでしょう。


