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石田三成が毒殺?改易から甲斐24万石へ復活した戦国武将・加藤光泰がたどった波乱万丈すぎる生涯【豊臣兄弟!】

石田三成が毒殺?改易から甲斐24万石へ復活した戦国武将・加藤光泰がたどった波乱万丈すぎる生涯【豊臣兄弟!】:2ページ目

改易から甲斐24万石の国主に

この時に秀吉から2万石の蔵入地を管理するよう任されていましたが、光泰はこの収益を横領したため、秀吉の逆鱗にふれてしまいます。

改易(所領を全没収)された光泰の身柄は豊臣秀長(仲野太賀)に預けられ、しばらく大和郡山城(奈良県大和郡山市)で蟄居していました。

やがて天正15年(1587年)に赦免された光泰は、近江国佐和山城(滋賀県彦根市)2万石を与えられ、また従五位下・遠江守に叙せられます。

天正18年(1590年)の小田原征伐では駿府城の在番として最前線には出ませんでしたが、戦後に甲斐国24万石を与えられました。

後方で武功も立てていないのになぜ?と思いますが、これは羽柴秀勝(秀吉の養子で姉ともの次男)が美濃国へ国替えされたことが原因です。

何でも彼女が「秀勝が甲斐なんて遠い国に行かされるのは可哀想だから、もっと近くの国に替えてほしい」と秀吉にゴネた結果だそうで、光泰にすれば思わぬ幸運でした。

甲斐国は関東八州を支配する徳川家康との国境に当たるため、光泰は一族総出で厳重に警戒し、また領内の検地や甲府城(山梨県甲府市)の築城に着手しています。

天下一統を果たした秀吉の野望は朝鮮半島や中国大陸にまで及び、やがて火蓋が切られた文禄の役(第一次朝鮮征伐)では、光泰も従軍に志願しました。

老いてなお血気盛んな光泰は朝鮮でも武功を立てたものの、現地で病に倒れ、文禄2年(1593年)8月29日に世を去ってしまいます。享年57歳。

3ページ目 「砂を食っても耐え忍んでみせる!」

 

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