『豊臣兄弟!』竹中半兵衛の死後、秀吉四参謀はどうなった?謎多き家伝「武功夜話」が伝えるそれぞれの最期:5ページ目
こうして秀吉四参謀は、ついに長康一人になってしまいました。そして盟友たちを喪ったあとの長康の人生は、過酷なものとなっていきます。長康は秀吉に領国の但馬に戻り隠居したいと申し出ますが、それは許されませんでした。
長康は蜂須賀正勝と並び武勇の人と思われがちですが、実は内政面でも豊臣政権を支えた重臣として秀吉からも頼りにされていたのです。豊臣政権の京都政庁である聚楽第を造営し、城下の千本屋敷で政務を担当、後陽成天皇聚楽第行幸の際にはその饗応役を務めています。
秀吉はそのような長康の文武における才能を買い、朝鮮出兵(文禄の役)では軍監および奉行を命じます。もとよりこの件に関しては反対の立場にあった長康ですが、2,000名の兵卒を率いて渡海しました。朝鮮では明の大軍による猛攻を受け、一族をはじめ多くの家臣を失いますが、奮戦して明軍を退けています。
ただこの出征で長康の心には大きな傷が残りました。その傷とは現地で日本軍の惨状を目にしたのにもかかわらず、秀吉に朝鮮出兵の誤りを正面から諫言できなかったことでした。それほどに秀吉との距離が遠くなっていたのです。
それでも秀吉は、関白職を譲った秀次の付家老および後見役を長康に任せます。そして1595年(文禄4年)、秀次が謀反の罪により秀吉に誅されると、長康も秀次を弁護したという罪で自害を命じられました。享年68歳でした。
秀吉四参謀として半兵衛・正勝・秀長没後、ただ一人豊臣政権を支えた長康。その人生は、悲劇的結末を迎えたのです。
長康の死から3年後、秀吉も61歳の生涯を閉じます。死に際して秀吉は、徳川家康をはじめとする諸大名に、秀頼の後事を請願しました。しかし天下は家康のものとなり、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で秀頼は自害し、豊臣氏は滅亡しました。
秀吉四参謀たちは、真に豊臣家の存続を願っていたに違いありません。しかし結論ではありますが、彼らの切なる気持ちは秀吉に届かなかったのです。
最後にそれを象徴するような長康の言葉を紹介して、この記事を終わりにします。そこには豊臣家の将来が暗示されていたのです。
「小田原出陣に先だって若君(鶴松)が誕生した。側室・淀君が母親である。世継ぎの誕生は秀吉を大いに喜ばせた。母親の淀殿の手柄は格別とし、その縁に連なる者たちはいよいよ重用されることになった。五十歳を過ぎてからの我が子の誕生というものは、武士の道を極め、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた勇将でさえも、我が子をいつくむ思いのあまり、煩悩によって澄んだ鏡が曇っているように見える。秀吉は我が子を守るため、信頼すべき古参家臣・譜代衆はもとより、新参・外様衆の区別なく人質を要求した」
半兵衛は秀吉と信長の関係を案じ、小六は古参家臣たちの立場を憂い、秀長と長康は豊臣政権の行く末を懸念しました。『武功夜話』が描く四参謀は、とても深い信頼で結ばれていたのです。
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※参考文献
松浦武著『「武功夜話」研究と三巻本翻刻』




