『豊臣兄弟!』竹中半兵衛の死後、秀吉四参謀はどうなった?謎多き家伝「武功夜話」が伝えるそれぞれの最期:4ページ目
秀長亡き後、ただ一人残された長康
1590年(天正18年)は、秀吉にとってはまさに筋目といってよい年でした。小田原の役で北条氏政・氏直父子を降し、名実ともに秀吉の天下統一が果たされたのです。
しかしこの年になると、秀長は病のため小田原参陣どころか、上京して政務を行うことすら叶いませんでした。この年の初め、長康は見舞いのため郡山城に訪れ、秀長に問われるまま秀吉の施政について答えます。長康から聞く秀吉の近況について、秀長は病床から切々と意見を述べますが、その多くは批判的なものでした。
長康はやせ細り、声も枯れてしまった秀長を正視できず「思わず眼をそらし」と述べています。秀長が直接秀吉に諌言できない無念を語ると「殿下は鶴松君の誕生以来、我ら古参の者の意見も軽んじられ、淀殿側近の意見ばかり聞くようになってしまった」と嘆いているのです。
1591年(天正19年)2月、秀長は郡山城にて死去、享年52歳でした。秀長について『武功夜話』は「御舎弟・秀長様は関白殿下が藤吉郎と称していたころから多くの合戦に参加し、その武功は数知れない。また兄弟の序を貫き、弟としての道を尽くした本当に真義の厚い方であられた。さらに胆力があり、めったなことには動じない。数々の貢献を果たしてきたが、決して驕ることがない大人物であった。その誠実さと徳を想い、諸将はみな心から喜んで従った」と称賛しています。
秀長の死から間もなく、千利休が秀吉の命で切腹して果てました。長康は小田原から戻ると利休と会談を行っています。そこで利休は「病床の秀長公から朝鮮出兵をはじめ、いろいろ殿下に諌言するように求められました。貴殿はどのようにお考えか」と問いかけました。長康は「朝鮮出兵は間違いなく国内疲弊をもたらす。自分は反対だ」と利休に述べたとされます。
死期が迫った秀長としては、自分のほかに秀吉へ諫言できるのは、もはや利休をおいてほかにいないと思い詰めていたのでしょう。それが利休切腹に結びついてしまいました。一方、長康にとっても利休はわずかに残された盟友の一人でした。『武功夜話』は、利休の死について「一人但馬守様(長康)、年来の心約の人を失い落胆限り無く候」と語っています。


