朝ドラ「風、薫る」ペスト感染の最前線で命懸けの活動!木村文平(前野朋哉)の実在モデルとされる青山胤通の生涯:2ページ目
ペスト流行!その時胤通は最前へ…
やがて胤通は、日本の医学界を先導する一人となります。
明治20(1887)年、青山胤通は日本へ帰国。青山は東京帝国大学医科大学(東京大学医学部)の教授に就任しました。
この点が、朝ドラ「風、薫る」の木村文平と重なるところです。木村文平は作中で内科教授として登場し、ヒロイン・一ノ瀬りんや大家直美と関わりますね。
実際に彼女たちのモデルである大関和や鈴木雅が実習したであろう時代、胤通は内科教授として彼女たちと関わっていた可能性が高いのです。
やがて胤通の名は、単なる大学教授にとどまらず、「青山内科」と呼ばれるほど大きな存在感を持つようになります。
明治24(1891)年に医学博士号を取得。研究者としての名声も高めていきます。
明治30(1897)年に東京帝大医科大学附属病院長に就任。明治34(1901)年には学長へ就任して組織の運営に当たりました。
当時の日本において、医科大学の教授は、単に教壇に立つだけの人物ではありません。
患者を診る臨床医であり、医学生を育てる教育者でもあり、国家の医療制度や衛生行政にも影響を持つ存在だったのです。
やがて胤通の生涯で最も衝撃的な出来事が訪れます。
明治27(1894)年、イギリス領香港でペストが流行。明治政府は、胤通と北里柴三郎らを現地へ派遣し、同地で調査へと当たらせました。
胤通は臨床と解剖の立場から調査にあたり、19体の解剖と45例の患者観察を行ったとされています。
そして現地の劣悪な衛生状態のなかで、自らもペストに感染。一時は危篤状態に陥ることとな理、ついには棺桶が用意されるほどだったとされています。
これは、医学者としての名誉ある任務であると同時に、命を賭けた現場でした。
しかし胤通は奇跡的に回復を果たして生還。この調査活動の後に発表された臨床・病理の報告は高く評価されました。
胤通は、研究室や講義室だけで医学を語るのではなく、感染症が猛威をふるう現場へ赴き、患者と遺体に向き合い、病の正体を追いかけたのです。
明治34(1901)年には医科大学長に就任。明治45(1912)年には宮内省御用掛として明治天皇の診療にもあたりました。
大正4(1915)年には伝染病研究所所長に就任し、大正6(1917)年には男爵に叙されて華族に列しています。
そして同年12月23日、胤通は世を去ります。享年は59。感染症研究や医学教育に命と人生をかけ、後進の育成に奔走した生涯でした。
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