朝ドラ『風、薫る』フユの夫・永田康介(じろう)への看護訪問は重要な伏線?日本初「看病婦」は戊辰戦争で誕生した:4ページ目
セイは軍陣病院勤務でスキルを磨いたのか
ドラマの原案となっている伝記によると、慶応4年(1868)4月に横浜軍陣病院が開設したときにセイは看病婦になったようですが、「それから20年にわたり働いてきた」「60歳を超えて目前に引退を控えた頃に大関和(一ノ瀬りんのモデル)ら看護婦見習いたちと出会った」そう。
これは勝手な想像ですが、もしかしたらセイは、横浜軍陣病院に勤め始めた新人時代からいきなり重傷をおった兵の手術介助を求められたのかもしれません。
そのため、「周囲の状況を冷静に観察して先を見越して行動する」というオペ看に必須の能力を鍛えられたのかも。
ドラマでも、フユは脚に柵が刺さった患者の手術時、顔色ひとつ変えずにスムーズに器械出しをしていましたね。
大関和が看護婦見習いだった明治21年(1888)頃に、セイは引退間近の60歳頃でキャリア20年ということは、1868年の働き始めは40歳くらいだったのでしょうか。
その前にすでに夫と結婚していたのか、夫とは患者として出会いその後亡くなったのか、想像の域を超えることはできません。
いずれにしても、横浜軍陣病院が「日本初の看病婦」を雇用した病院で、もしかしたらその一人だった吉村セイが引退する際、「日本初の看護婦」大関和にスキルを伝授した……のかと想像すると、感慨深いですね。
鈴木雅が設立した「派出看護婦会」への布石か
大家直美のモデル、鈴木雅を語る上で欠かせないのが『派出看護婦会』の創設です。
明治24年(1891)東大病院で内科看病婦取締を務めていた鈴木雅が病院を退職し、始めたのが「慈善看護婦会」です。(『国史大辞典』によると、これが日本最初の派出看護婦会だそう)
派出看護婦とは、患者の家庭に出向いて看護にあたる看護婦のことで、現在の在宅看護に通じる仕組みですがこの当時はかなり画期的でした。
雅は「看護婦という職業の存在を広く知ってもらうため」貧困層の人々には無料で看護婦を派遣。明治29年(1896)には、大関和が派出看護婦会の会長となりました。
今回、直美が躊躇なくフユの夫・康介の訪問看護を引き受けた場面、トレインドナースの制服のままりんと看護に出向いた場面は、この将来の布石なのかもしれませんね。
りんと直美が家を訪問したときは襖を閉め切っていた康介。彼女たちが帰ったあとは、襖を開けて陽光と風を部屋に入れています。「看護」という仕事が患者に与えてくれる気持ちのよさをしみじみ実感したのではないでしょうか。この訪問看護が「どうせ看病婦なんか」と閉ざしていた心の窓を開くことに繋がればいいのですが。
看病婦も看護婦も、お互いに気持ちよく知識やキャリアの交換ができるときが早くきますように。
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参考:
日本医史学会総会「日本初の女性看病人誕生の背景(戊辰戦争時壬生の看病人)」
『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中公文庫)田中ひかる著



