朝ドラ『風、薫る』フユの夫・永田康介(じろう)への看護訪問は重要な伏線?日本初「看病婦」は戊辰戦争で誕生した:3ページ目
戊辰戦争で、日本初の「女性看病婦」が雇用される
永田フユのモデル「吉村セイ」は、帝国大学医科大学第一病院(現在の東大病院)が、横浜で軍陣病院として開かれた頃から20年に渡り働いてきた大ベテランで、引退を控えて熱心に後進の指導にあたったそうです。
セイは、「戊辰戦争で軍人だった夫を失い軍陣病院で看病婦として働くようになった」そうですが、なぜ看病婦という仕事を選んだのか理由は不明です。
そのセイの夫が命を落とした戊辰戦争で、日本初の「女性看病婦」が雇用されました。
『日本初の女性看病人誕生の背景』という資料によると、
〜現存する資料から、日本で最初に女性看病人が雇用されたのが慶応4年4月24日、戊辰戦争の壬生城内(現在の栃木県下都賀郡壬生町)であった。
この女性看病人に関する資料は弘田親厚著『慶応四戊辰会津征討日記 弐の巻』のみであり、どのような女性が雇用されたのかは不明である。〜
そうです。
また、続きを要約すると、
〜慶応4年(1868)1月3日、日本史上最大の内戦である戊辰戦争が始まり、土佐藩は出兵に際し600 名のうち病院組織として医師10名、衛生兵30名を出した。壬生城(現在の栃木県下都賀郡壬生町)での土佐藩の兵員は230名程度で医師5名衛生兵0 名。
4月に「銃創看病人として此地の婦人九人雇入養生局に差置ける」(弘田親厚著『慶応四戊辰 会津征討日記 弐の巻』)〜
とあり、「傷病兵の看護のため女性を9人雇用した」と記録にあるそう。
このことは、当時の横浜大病院が女性看病婦を雇用したよりも約1ヶ月早いために日本初の「女性看病婦」の誕生とされているそうです。
(逆に、慶応4年4月に横浜軍陣病院が開設。英国軍医のウイルスが主任となり看護のため女性を雇い入れて傷病兵を看護したのが「日本初の職業としての看病婦」誕生とする説もあります)
戦いで多くの傷病兵が出たこと、医師や衛生兵の不足、戦いで男性が徴用されていたことなどが重なり、女性を募集することになったようです。このとき、報酬をもらって看病にあたった看病婦は、農民や町民の子女である可能性が高かったとか。
けれども、これは戊辰戦争における一時的なもので、未訓練で何も知識も学んでいない看病婦から看護婦の誕生に結びつくことはありませんでした。
