『豊臣兄弟!』松永久秀(竹中直人)は本当に悪人だったのか?家臣たちに慕われた戦国武将の意外な素顔:2ページ目
信貴山城における家臣たちの壮絶な戦い
久秀の態度に怒りを爆発させた信長は、嫡男・信忠を総大将に佐久間信盛、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、筒井順慶など織田家主力軍4万を信貴山城へ差し向けます。対する松永軍は総勢約8千、5倍の兵力を信貴山城とその支城で迎え討ちました。
久秀が信長から大和一国の支配を許されていた頃は、その所領は約45万石、兵力として1万3千人ほどは動員可能でした。しかし、多聞城を失った当時の久秀には、とてもそんな大軍を動かすことはできません。それでも、久秀のもとには20万石を遥かに超える8千という軍勢が集まったのです。
そして10月1日、筒井順慶を中心とする織田軍は信貴山城の支城・片岡城に5千の軍で襲い掛かります。松永軍は、海老名勝正、森秀光らが約1千の兵で守備。『信長公記』によると勝正らは「本丸が落ちても天主に立て籠もり、鉄砲・弓矢を討ち尽くすと切って出て、約150人が討死した」と記されるほどの激戦となりました。
片岡城を落とすと織田軍は大和川を越え、10月3日には信貴山周辺を焼き払います。この時、「信貴山ヒサ門堂燃え云々」と『多聞日記』にあるように、朝護孫子寺の毘沙門堂が焼け落ちました。そして10月9日には、信貴山城下の武家屋敷に火が放たれ、残るは本丸とその近くの曲輪だけとなったのです。
10月10日、早朝から織田軍は本丸に総攻撃を開始。これに対し松永軍は壮絶極まる抵抗をみせ、弓・鉄砲を乱射、あるいは城門から打って出て、織田軍を後退させます。
しかしこの時、本丸中枢に近い三の丸から火の手が上がりました。この出火は織田側の調略により寝返った一部の家臣によるものともされます。
ここに至り、久秀は本丸の四層櫓で自害して果てました。享年68歳。子の久通も父と運命をともにしました。『豊臣兄弟!』で描かれたような「平蜘蛛茶釜」もろとも爆死したというのは後世の創作で、どの一次資料にもそのような記載がないのが事実です。
ただ、第一級の茶人でもあった久秀は、茶道具や茶の湯を政治的駆け引きの道具として用いる信長を、風流を解さぬ「俄か数寄者」と見ていたのかもしれません。
一度は降伏の印として「九十九髪茄子」を献上したものの、最後の時に至っては信長のような無粋な者には「平蜘蛛茶釜」は断じて渡さないという、久秀の文化人としての矜持を感じさせるのです。



