朝ドラ「風、薫る」りんが出会った“厄介な患者”の正体…園部弥一郎(野添義弘)のモデル・長田銈太郎の生涯:2ページ目
新時代明治において残した多分野での業績
明治維新後、銈太郎は自身の力を未来を切り開いていくこととなります。
江戸城無血開城後、銈太郎は静岡に移住。駿府に移封された徳川家の駿河府中藩のもとで活動していました。
静岡学問所においてフランス語教授筆頭格に就任。教授には中村正直や外山正一らがいました。
やがて銈太郎は明治政府に出仕。かつての経歴や能力を買われて兵部省で働き始めます。
明治4(1871)年には、アメリカに派遣。これが翌明治5(1872)年の外交官となる契機となりました。
銈太郎はフランスの日本公使館に赴任。明治7(1874)年には日本に帰国し、外務少丞、外務少書記官と出世の階段を登っていきます。
明治11(1878)年にはロシアの日本公使館に赴任。駐ロシア公使心得となって日本の大法的立場となります。
明治15(1882)年には再び帰国。宮内省に所属し、宮内権大書記官兼太政官権大書記官を拝命します。
同省では式部官(外交儀礼担当)となって、明治天皇の側近となって通訳を務めるに至りました。
当時の日本においては、国家を代表する人材の一人として期待されていたことがわかりますね。
やがて銈太郎は、民間においても教育事業の普及を担うこととなります。
明治19(1886)年、東京仏学校(法政大学の前身組織)の設立に参加。理事となります。
同年には山縣有朋の計らいによって内務省参事官を拝命。政治の中心的位置で国家に関わりました。
明治20(1887)年には、モーリス・ブロックの著書を銈太郎が翻訳した『初学経済問答』が刊行。同書は経済知識の導入に関わる翻訳であり、銈太郎の関心が外交語学だけに限られなかったことを示します。
西洋の知識を日本語へ移し替える仕事も、明治前期の知識人・官僚に課せられた重要な役割でした。
明治22(1889)年、愛知県知事に勅任の内命が降ります。しかし赴任前、銈太郎は不幸な事故に遭遇しました。
この後、銈太郎は自宅で療養。派遣された看護婦が大関和(一ノ瀬りんのモデル)でした。
ドラマ「風、薫る」と同様、このときの銈太郎は傷病者でありながら、養生せずに大関を困らせます。
しかしある日、大関和が黒羽藩の家老であった大関弾右衛門の娘であるとわかると変化がありました。
銈太郎は過去、弾右衛門にフランス語の通訳をしたことがあり、それを懐かしく思ったとされます。
相変わらず看護を受け付けなかったものの、以降、銈太郎の大関和に対する態度は柔らかくなりました。
しかし看護の甲斐なく、同年3月31日、銈太郎は39歳(41歳とも伝わる)の生涯を閉じます。
銈太郎の葬儀の日、大関和は看護服で参列。葬列に看護婦が制服で付き添うようになったのは、これが初めてだったとされます。
銈太郎がもし長く生きていれば、外交・宮廷儀礼・教育の分野でさらに大きな役割を担った人物でした。
長田銈太郎の生涯は、江戸から明治へ、日本が世界と向き合うための「言葉の橋」を架けた人物だったと言えるでしょう。
※朝ドラ「風、薫る」実在モデル紹介記事:


